ヨ係が究明せられねばならない。
デカルトは「第五省察」において再び神の存在問題に触れている。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在ということは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度において自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であるということが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在ということは、神の本質から離すことはできぬ。存在ということの欠けた最高完全者というものを考えることは、谷のない山を考える如く自己|撞着《どうちゃく》である。故に神は存在する。而して完全無欠なる神は欺かない。そこから我々の自己において明晰判明なる知識の客観性を基礎附けるのである。最高完全者としての神の観念は存在を含むという神の存在の証明は、百円の観念は百円の金貨ではないという如きを以て一言に排斥すべきではない。神はカント哲学の形式によって実在するというのではない。実在の根柢を何処《どこ》までも論理的に考える時、私は「最高完全者は存在する」という理由も出て来ると思う(Leibniz,“Quod Ens Perfectissimum existit.”)
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