ネ《ゆえん》である。
真に自己自身によってあり、自己自身を限定するものは、それ自身に於《おい》てあり、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。然《しか》らざれば、それは我々の自己に対立するもの、対象的有たるに過ぎない。コーギトー・エルゴー・スムといって、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途《みち》を踏み外《はず》した、自覚的分析の方法の外に出たと思う。無論それはスピノザのいう如く一つの命題としてスム・コギタンスとしても、問題はこのスムになければならない。我々の自己自身を、デカルトの如き意味において一つの実体と考えるならば、それにおいての内的事実として、いわゆる明晰《めいせき》判明なる真理も、主観的たるを免れない。デカルトも明《あきらか》にこれを意識した。数学的真理の如きも魔の仕事かも知れないとまで考えた。彼は遂に知識の客観性を、神の完全性に、神の誠実性に求めた。デカルトのかかる考といい、ライプニッツの予定調和といい、時代性とはいえ、鋭利なる頭脳に相応《ふさわ》しからざることである。デカルトの如く我々の自己を独立の
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