チたに過ぎない。実践といっても、そこからでは形式的規範が考えられるだけである。カントの実践哲学は、近代社会における市民道徳の基礎附けである。私は決してカントの道徳的規範を無視するものではないが、今日の歴史的世界は新なる哲学の出立点と新なる実践原理とを求めるのである。我々はなお一度デカルトの出立点に返って考えて見なければならない。

        二

 哲学の問題は自己自身によってあり、自己自身を限定する真実在の問題であり、その方法は何処《どこ》までも徹底せる懐疑的自覚でなければならない、詳しくいえば絶対の否定的自覚、自覚的分析でなければならない。我々が真に生死を賭《と》し得る実践も、此《ここ》から出て来るのである。私はかかる意味において、デカルトの問題と方法とに同意を表するものである。哲学に入るものに、彼の『省察録』の熟読を勧めたい。しかし私は彼は遂《つい》にその目的と方法に徹底せなかったと考えるものである。彼はアリストテレス的論理を脱しなかった。実在を何処までも主語的なるもの、基本的なるものに求めた。そこから彼はいわゆる独断的形而上学に陥った。カントの排斥を受けねばならなかった所
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