アの故に科学の方法は行為的直観である。哲学の方法は自覚である。而して両者共に無限の過程である。右にいった如く、私の行為的直観というのは無限の過程である。否定的自覚というのも無限の過程である。アランのいう如く、懐疑的自覚は幾度も繰返されなければならない。
哲学の立場は、見るものなくして見る立場、考えるものなくして考える立場として、そこに自己自身を限定する自覚的原理を把握するのである。それは自己自身によって自己自身を限定する真実在の原理として、何処までも深く概念的に把握せられるものでなければならない。これを実体化する時、それまでである、死んだ概念に過ぎない。私は古来、哲学はかかる立場において始まり、かかる立場において今日まで発展し来ったと思う。ソクラテスの哲学もギリシヤ時代において懐疑的自覚の立場において始まり、自己自身を限定する実在の原理はプラトンのイデアにおいて把握せられた。しかしギリシヤのポリス的世界の時代においては、未《いま》だ真の個人的自覚というものはなかった。それは働くものの世界ではなかった。ロゴス的実在の世界、見られるものの世界であった。アウグスチヌスの自覚の哲学は、キリス
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