ネければならない。そこには何らの意味においても対象的なるもの、否、基体的なるものがあってはならない。推論によって求められるものがあってはならない。自己自身の証明を他に求めるものは、自己自身によってあるものではない。主語となって述語とならないといっても、それは自証するものではない。哲学の対象は自己自身を自証するもの、対象なき対象でなければならない。カントが形而上学として排斥したのは、推論によって外に実在を求める形而上学である。そこでは哲学は科学に堕するのである。而してそれは単に推論的に、行為的直観的たる経験を離れるかぎり、何らの客観性をも有《も》つこともできない。哲学は空想に過ぎない。哲学は対象なき対象の学、自証の学でなければならない。そこに科学と異なった哲学そのものの存在理由があるのである。科学というのは、自己表現的世界が行為的直観的に自己自身を表現した時に成立するのである。科学の世界は、形が形自身を限定する世界である。その根柢には、見るものなくして見る、世界が自己自身を映すということがなければならない。哲学が科学の根柢とならなければならない所以《ゆえん》は、此《ここ》にあるのである。
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