見と一致せないかに見えるものから非常に注意深く、精神をできるだけ感官から引離そうと努力する人によってのみ理解せられるのである。単にそれだけを主張するならば、何事にも反対好きな人は容易に否定するであろうという。デカルトは此《ここ》に人に説くためにということを主として考えているようであるが、徹底的な懐疑的自覚、何処までも否定的分析ということは、哲学そのものに固有な、哲学という学問そのものの方法でなければならない。私は哲学の方法を否定的自覚、自覚的分析と考えるものである。
 自己自身の存在に他の何物も要せない、自己自身によってある真実在は、自己自身を理解するもので、自覚するものでなければならない。スピノザの如くそれ自身によって理解せられるといっても、既に理と事とが二つになる、本質と存在とが対立する。単にそれ自身によって理解せられるものは属性である、実体ではない。無限なる属性の基体としての神は、コンポッシブルの世界の主体、事の世界の主体でなければならない。真にそれ自身によってあり、それ自身によって理解するものは、事が事自身を限定する、純粋事実というものでなければならない。純粋行為というも、既に二次的である。かかる実在が明《あきらか》にせられるには、否、かかる実在が自己自身を明にするのは、絶対否定的自覚によるのほかはない。そこに哲学は宗教に通ずるものがあるのである。大疑の下に大悟ありという。哲学はかかる立場において、知識の根本原理を把握するのである。故に哲学の最高原理は、矛盾的自己同一的たらざるを得ない。
 知識は単に形式論理の立場から成立するのではない。知識は何らかの意味においての直観を含んでいなければならない。然らざれば、客観的知識ではない。私の直観というのは、終が始に含まれている過程である。故に一々の過程が始と終とを含んでいる。目的的作用というものにおいても、あるいは斯《か》くいい得るであろう。しかし直観においては、一々の点が始であり終であるのである。それは創造的過程であるのである、故に自覚的であるのである。時を媒介とするのではない、時の過程はそこからであるのである。故に直観は無限の過程である。私はこれを、自己自身によってある実在が、自己の中に自己を映す無限の過程という。直観ということは、単に過程が否定せられて、一度的に最終の真理が見られるということではない。それは極
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