ネ否定を含むものでなければならない。一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。自己否定を他に竢《ま》たなければならない。何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。
私は此《ここ》からして自《おのずか》ら真実在というものが如何にして我々に求められるかという哲学的方法が出て来ると思う。それはかつてデカルトが『省察録』において用いた如く、懐疑による自覚である、meditari である(野田又夫『デカルト』)。それは徹底的な否定的分析でなければならない。彼は『省察録』の第二答弁において証明 〔de'montrer〕 の仕方に二通りあるという。一つは分析 〔analyse ou re'solution〕 であり、一つは綜合 〔synthe`se ou composition〕 である。分析とは、物が方法的に見出され、如何に果が因に因《よ》るかを見る方法である。読者はそれに従って、注意深く、含まれたる凡《すべ》てに目を注ぐならば、あたかも自分が見出した如く完全に証明せられ、理解せられる方法である。綜合というのは、これに反し定義、要請、公理等の過程によって結論を証明する、いわゆる幾何学的方法である。而《しか》して彼は彼の『省察録』において専《もっぱ》ら分析的方法を取ったという。何となれば、幾何学においては、その根本概念が感官的直観と一致するが故に、それは何人にも受入れられるが、形而上学的問題においては、最始の根本概念を明晰《めいせき》に判明に把握することが困難なのである。本来の性質からは、それは幾何学のものよりも、一層明晰なものなのであるが、我々が感官から得た、幼時から馴《なら》された、種々なる先
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