驍ゥぎり、我々は有力である、幸福である。これは対象認識的たる科学的知識とは、その方向を異にするものでなければならない。スピノザも外物については、我々の精神は不十全なる知識しか有せないという。十全と不十全とは程度の差ではなくして、性質的に異なっていなければならない。そこに立場の相違がなければならない。
デカルト以来、十全なる知識といえば、数学的知識の例を以て説明せられる。スピノザ哲学の十全なる知識も、往々|爾《しか》解せられる。しかし爾考えられるならば、スピノザ哲学も数学的主知主義に堕するのほかない。而《しか》して今日の無矛盾性の数学は、果して当時考えられたる如く十全なりや否や。スピノザ哲学においては、右の如き立場の相違が明《あきらか》にせられなかったのは、主語的論理的であった故であると思う。そこには論理的立場の転回がなければならない(「予定調和を手引として宗教哲学へ」参照)。しかし私は右の如く科学と哲学との相違を明にすべきを主張するものではあるが、一派の学者の如く単に両者を無関係的に考えるものではない。哲学は科学を尊重し、科学を材料とするとともに、科学は哲学に基礎附けられねばならない。ガリレイをば根柢なしに建てたと評したデカルトの目的は、新自然学の形而上学的基礎附にあったともいわれる。しかしそれは両者の立場を混同して、科学の中に哲学を入れるという如きことではない。唯、科学隆盛以来、哲学は科学の下婢《かひ》となったという感なきを得ない。輓近《ばんきん》に至って、単に認識論的となり、更に実用主義的ともなった。哲学は哲学自身の問題を失ったかと思われるのである。
私はデカルト哲学へ返れというのではない。唯、なお一度デカルトの問題と方法に返って考えて見よというのである。デカルト哲学はカントのコペルニクス的転回によって覆《くつが》えされた。しかし今日カント哲学の立場そのものが、再び批判せられなければならぬのではなかろうか。カントの哲学的方法即哲学的方法ではない。哲学の方法は何処までもデカルト的でなければならない。何処までも否定的自覚、自覚的分析である。この故に哲学は個人主義的とか自由主義的とかいうのではない。哲学は自己を否定すること、自己を忘れることを学ぶのである。この世界歴史の大転換期に当って、何処までも日本文化の根柢を掘り下げて、我々の思想は深く大なる基礎の上に築き上
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