して善人に立ち返るは此の様な時で有ろう、況《ま》して彼は悪人でなく、聊か感情の強いのみで殊に義侠の気さえ有る男ゆえ、面前《まのあたり》に見る有様の為全く其の義侠の心が絶頂に達したのであろう、断乎たる決心の籠った声で「ハイ其の仔細は私が二人を引き放したのです、秀イヤ春子嬢の潔白な事を証明するから其の代わり、道九郎君は嬢に憎まれる様に仕向けよと、私が無理に約束を結ばせました、けれど今は到底二人を引き離す事の出来ぬのを曉《さと》りました、ハイ道九郎君が何れほど辛い想いをして何れほど正直に其の約束を守ったかを考えれば私とてもそれに劣らぬ辛い想いに堪え得る事を示さねば成りません、サア道九郎君、嬢は全く貴方の外に嬢の所天《おっと》たる可き人はないのです、約束は消滅しました」と云って嬢と余の手を握り合わさせた、余は嬉しさに夢中と為り何時の間に権田が立ち去ったか知らなんだ。

 此の上の事は話すに及ばぬ、幽霊塔の話は是で終わった、後は唯其の後の成り行きを摘《つま》んで記そう。
 虎井夫人は又此の家へ、帰って来ると云わぬ許りに狐猿を後に残し、人に油断をさせて置いて立ち去ったまま帰って来ぬ、森主水の探った所では自分の弟穴川甚蔵の許へ逃げて行き、甚蔵及び彼の医学士大場連斎と共に、濠洲へ出奔したらしいとの事、兎に角養蟲園はガラ空で、彼の幾百千とも数知れぬ蜘蛛が巣を張るのみである。狐猿は今千艸屋に飼われて居る、浦原お浦は米国へ行き女役者の群に入り何所か西部の村々を打ち廻って居る相だ、天然に狂言の旨い女だから本統の嵌役《はまりやく》と云う者だろう、時介は直ちに外国へ漫遊に出て未だ帰らぬ、余と春子の間には玉の様な男の子、イヤ是は読者が羨むから云わずに置こう。
 シテ彼の塔の底の宝は、然し彼の宝は血統《ちすじ》の上から余の物でも叔父の物でもなく、全く春子の物である、其の仔細は叔父朝夫は丸部総本家から数代前に分れた家筋で血筋が遠い、血筋の一番近いのは叔父の妻で有った夫人で、其の死んだ後は其の腹に出来た春子が当然の権利者で有る、殊に血筋を離れて云うも、幽霊塔の前の持主輪田お紺の遺言に養女輪田夏子、実は春子、を相続人として有ったので、此の方から見るも幽霊塔全体が夏子の物だ、唯夏子が牢死したとなった為自然高輪田長三の物に成って居たが、夏子が生きて居れば長三の権利さえ権利とは云われぬ質の権利で有った、爾れば春子は塔の境内に宝物|庫《くら》を建て、一先ず彼の十七有個の箱を塔から取り出して之を納め、第一号の家珍は子孫へ伝える事とし、金銀は全英国の慈善事業総体へ寄附し猶欧洲大陸、及び東洋南洋の殖民地の教会へも寄附し、其の他世界中の慈善事業へ今以て寄附して居る、併し叔父の領地即ち余の領地も之が為に大いに広がったことは事実である、領地には一郷々々に悉く小学校を建てた、其の費用も春子が支弁して居るが、中には毎月五百ポンドほど掛かる、大きな学校も有る、けれど仲々それだけでは使い切れぬ、猶大部分は、珠玉などまで銀行の倉庫に在って、利に利を産んで居るが、他日若し英国正義の進路の為に国運を賭して他国と戦争する時が有らば決して課税などを引き揚げさせぬと春子は云って居る、言い替えれば軍費に献納する積りである、何と目出度い訳ではないか。



底本:「別冊・幻影城 黒岩涙香 幽霊塔・無惨・紳士のゆくえ」幻影城
   1977(昭和52)年12月25日発行  
底本の親本:「幽霊塔」前編、後編、続編 扶桑堂
   1901(明治34)年初版発行
参考図書:「幽霊塔」旺文社文庫、旺文社
   1980(昭和55)年2月1日初版発行
※誤記等の確認に旺文社文庫版「幽霊塔」を参考とした。また、旺文社文庫版をもとに難読な語にルビを追加した。
入力:地田尚
校正:かとうかおり
1999年11月5日公開
2000年7月17日修正
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