薬を遣り此の客帳は誰が記けたと問い、果して怪美人が記けたのだと聞いて、更に何か虎井夫人の書いた者は無いかと尋ねたが、生憎之は無い、若し有ったなら贋電報に関する余の疑いの当り外れが分っただろうに。
 夫から又怪美人は今朝何時頃に立ったかと問うた、帳場の返事では六時前に怪美人が一人で帳場へ来て二人の勘定を済ませ其のまま立ち去ったが七時頃に虎井夫人は怪しむ様子で降りて来て、既に怪美人が勘定まで済ませて立ったと聞き、驚いて二階へ行き例の狐猿と荷物とを携えて、※[#「※」は、つつみがまえの中に夕、29−下12]々《そこそこ》に其の後を追っ掛けて行ったという事だ、是で見ると昨夜余の漏れ聞いた争いの結果が到頭円満には纒らずに怪美人が虎井夫人を振り捨てて立ったのだろう、何の様な間柄かは知らぬけれど、余り気の合った同士とは思われぬ。
 其のうちに叔父もお浦も来て、共々に用意の馬車に乗り、間も無く幽霊塔には着いたが、別に異様な事もない、相変らず陰気な許りだ、塔の上は後として先ず下の室々から検《あらた》めたが、何しろ何代も続いた丸部家が、後から後からと建て足した者で座敷の数は仲々多く、其の癖座敷と座敷との関係などが余り旨く出来て居無くて、何の為だか訳が分らぬ室なども有るけれど叔父の気には充分入ったと見え、叔父「フム悉く雑作を仕直せば仲々面白い屋敷になる」と云い、愈々買い取る事にするとの意を洩した、下の検査は是だけにして今度は塔の上へ登ったが、検め検めて昨夕余が怪美人に逢った室迄行って見ると、昨夕は此の上に在る時計室へ上る道が分らなんだのに、今朝は壁の一方に在る秘密戸が開いて居て時計室が見えて居る、何うして此の秘密戸が開いたのかと敢て怪しむ迄もない、今朝六時に宿を立った怪美人が茲へ立ち寄り此の戸を開けて置いたので有ろう、怪美人が此の秘密戸の開閉の仕方を知って居る事は昨夕時計を捲いたので分って居る、此の戸の開け方を知らずに時計を捲く事は勿論出来ぬ筈だから。
 とは云え怪美人は何故に今朝故々此の塔へ来て此の秘密戸を開けたのだろう、余は何とやら余等に対する親切で故々此の戸を開けた儘で置いて呉れたのだと思う、爾すれば外にも猶室の中に何か怪美人の来た印が有るかも知れぬと思い、室の中を見廻すと、お紺婆の寝台の上に一輪の薔薇の花が落ちて居る、余よりも先にお浦が之を看て「オヤオヤ今朝か昨夜か此の寝台へ来た人が有ると見える此の花は未だ萎れて居ぬ」と云って取り上げた、全く余の思う通りだ、怪美人が今朝茲へ来たという事を余に知らせるのだ、余は親切の印ともいう可き此の花をお浦風情に我が物にされて成る者かと殆ど腕力盡で引奪《ひったくっ》たが、悲しい哉花よりも猶大切な者をお浦に取られて仕舞った、夫は花の下に伏せてあった一個の鍵である、お浦は花を余に取られて惜しみもせず、直ぐに又寝台に振り向き「ア、丁度花の下にこれ此の様な古い銅製の鍵が有ります」と云って、今時のよりは余ほど不細工に出来た鍵を取り上げた、扨は「怪美人が此の鍵を受け取れ」と余へ注意する為、鍵の上へ花を載せて目に附く様にして置いたのだ、余は此の鍵をも取り上げようと手を延べたのに、お浦「オット爾は了《いけ》ません、此の鍵は私が拾ったのだから、真の持主が現われるまで私が預ります、誰にも渡しません」と言い切り早や衣服の何所へか隠して仕舞った。
 爾して余と叔父とが上の時計室を検めて居る間に、其の鍵を方々の錠前へ試みたと見え忽ち声を上げ「オヤ茲に此の様な物が有ります」と叫ぶから行って見ると寝台の枕の方にある壁の戸棚を開けて居る、今の鍵は確かに此の戸棚に用うるのだ、戸棚の中には一冊の大きな本が有る、今度は余が此の本を取り出して見ると昔し昔しの厚い聖書だ、是ほど立派なのは図書館にも博物館にも多くはない、之を若し考古家に見せたら千金を抛っても書斎の飾り物にするだろう、何しろ珍しい書籍だから「是は丸部家の宝物の一つでしょうね」といゝつゝ表紙を開いて見ると、これは奇妙、表紙裏も総革で、金文字を打ち込んで有る、文字の中にも殊に目に附くは、最初に記した「咒語」の二字だ、思えば昨夜、怪美人がこの室に丸部家の咒文が有るといゝ余に暗誦せよと告げた、即ち此の咒語に違いない、咒語か、咒語か、何の様な事を書いて有る、文字は鮮《あざや》かで有るけれど、仲々難かしい、余は漸く読み下した。
[#以下14行表罫囲み、本文とのアキなし]
明珠百斛 めいしゆ    王錫嘉福 わうかふく
     ひやくこく        をたまふ
妖※偸奪 えうこん    夜水竜哭 やすゐ
     たうだつ         りようこくす
言探湖底 こゝにこていを 家珍還※ かちん
     さぐり          とくにかへる
逆焔仍熾 ぎやくえん   深蔵諸屋 ふかくこれを
     なほさかんなり      をくにざうす
鐘鳴緑揺 しようなり   微光閃※ びくわう
     みどりうごく       せんよく
載升載降 すなはちのぼり 階廊迂曲 かいらう
     すなはちくだる      うきよく
神秘攸在 しんひの    黙披図※ もくして
     あるところ        とろくをひらけ
[#ここで表罫囲み終わり]
[#妖※偸奪「※」は「かみがしらの下に几」、読みは「こん」、30−下16]
[#家珍還※「※」は「きへん+賣」、読みは「とく」、30−下17]
[#微光閃※「※」は、へんが「火」、つくりが「日」の下に「立」、読みは「よく」、30−下19]
[#黙披図※「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、30−下21]
 何の意味であろう、先ず読者にも考えて貰い度い。

第十回 図 ※ [#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、31−上2]

 何にしても此の咒文は幽霊塔の秘密を読み込んで有るに違いない、この意味が分れば、幽霊塔の秘密も分るに違いない。
「明珠百斛《めいしゅひゃっこく》、王錫嘉福《おうしかふく》、妖※偸奪《ようこんとうだつ》、夜水竜哭《やすいりょうこく》、言探湖底《げんたんこてい》、家珍還※《かちんかんとく》、逆焔仍熾《ぎゃくえんじょうし》、深蔵諸屋《しんぞうしょおく》、鐘鳴緑揺《しょうめいりょくよう》、微光閃※《びこうせんよく》、載升載降《さいしょうさいこう》、階廊迂曲《かいろううきょく》、神秘攸在《しんぴしゅうざい》、黙披図※《もくひとろく》」
[#妖※偸奪「※」は「かみがしらの下に几」、読みは「こん」、31−上5]
[#家珍還※「※」は「きへん+賣」、読みは「とく」、31−上6]
[#微光閃※「※」は、へんが「火」、つくりが「日」の下に「立」、読みは「よく」、31−上6]
[#黙披図※「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、31−上7]
 昔の韻文で、今人の日常には使用せぬ文字も多いが、併し兼ねて余が聞き噛って居る幽霊塔の奇談と引き合せて考えれば、初めの方だけは薄々に斯う云う意味だろうかと推量は附く、平たく云えば「沢山な宝を(第一句)国王から恵まれた(第二句)怪しい悪僧が盗み去って(第三句)暗い水の中へ落した(第四句)いま水海の底を探して(第五句)我が家の宝が元の箱へ還った(第六句)今は物騒な世の中だから(第七句)人の知らぬ様に家の中へ隠して置く(第八句)」と、此の様な事でも有ろうか、併し此の次の四句は更に分らぬ、鐘が鳴るの、緑が動くの、微かな光が閃めくの、昇るの降るのとて、全体何の事だ、此の四句が能く分れば多分は其の宝の在る所へ行く路も分り、従って其の宝と云う物は全くあるかないか此の伝説が虚か誠かと云う事を見極める事も出来ようけれど、到底此の意味は分らぬから仕方がない、唯余に分らぬのみでなく恐らくは誰にも分らぬで有ろう、分らねばこそ今まで何百年も秘密と為って存して居るのだ、とは云え末二句には聊か頼もしい所がある「神秘の在る所、黙して図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、31−上23]を披け」と云うは「詳しい事は図面で見よ」と云う様な心ではあるまいか、爾とすれば其の図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、31−下1]とか云う図面を見れば、最《もっ》と能く分り相に思われる。
 此の様に考え回す所へ、叔父は時計室から降りて来て「何う見ても時計の捲き方は分らぬ、夜前の松谷秀子嬢に最一度逢って教えて貰うより外はない」と云ったが、頓て背後から此の咒語此の聖書を見、驚いて「ヤ、ヤ、是は大変な物が出て来た、此の聖書は昔から丸部家の家督を相続する者に伝えて来た宝の一だ、咒語は到底何の事だか分らぬけれど丸部家の当主たる者は誕生日毎に此の咒語を暗誦して其の意味を考えねばならぬと云う事に成って居たのだ、全体此の聖書は何所から出た」余「今此の戸棚に在りました」叔父「それは益々もって不思議だ、此の聖書は輪田お紺婆が此の塔を買い取るより数年前に紛失して、時の当主は大金を掛けて詮索したが到頭出ずに仕舞ったのだ、若しその時に此の戸棚に在ったなら直ぐに当主が見出す可き筈で有る、勿論此の戸棚などは空にして探したけれど出て来なんだ、何でも一旦紛失した物が時を経て茲へ返ったのだ、聖書が独りで返る筈はないから誰かが持って来て密っと入れたのだ」余は益々怪美人の言葉を思い合せ、彼の美人が余に此の咒語を解かせ度いとでも云う親切で此の聖書を茲へ入れたに違いないと思う、併し彼の美人が何うして此の聖書を持って居たかなど云う点は更に分らぬ、分らぬけれど分らぬ事だらけの怪美人のする事だから、何も是のみを怪しむにも及ばぬ訳サ。
 叔父は聖書の表紙などを検めて「表紙に塵などが溜って居ぬ所を見ると此の頃まで人手に掛って居た者だ、何うも己の推量が当って居る様だ」余「エ、貴方の推量とは」叔父「昔、此の書が紛失したと聞いた時、己は多分其の頃老女を勤めて居たお紺婆が盗んだのだと思った、アノ婆は非常な慾張りで有ったから、此の塔に宝物が隠れて有ると云う伝説を聞き、咒語さえ見れば其の宝の在る所が分る事と思い、先ず此の聖書を盗み、爾して其の後此の塔を買い取ったのだ」余「では此の聖書が何うして茲に在ります」叔父「多分はお紺の相棒が有ったのだろう、お紺自身は咒語を読む事などは出来ぬから其の相棒へ之を渡して研究でもさせたのだ、其の相棒が研究しても分らぬから終に絶望して聖書を茲へ返したのだろう」果して其の推量の通りならば、怪美人が其の相棒と云う事になる、余は何うも爾は思わぬ。アノ様な美しい女が其の様な悪事に加担する筈はない、若し加担したのならば此の聖書を余の手に這入る様に茲へ入れて置く筈はない、叔父とても若しアノ美人が此の聖書を茲へ置いた者と知れば、お紺の相棒などと云う疑いは起さぬに違いない、併し余は今、アノ美人の事を叔父に告げ、美人が此の聖書を持って来たらしいなどと知らせる事は出来ぬから、唯無言で聞いて居ると、智慧逞しいお浦は其の辺の事情を察したのか「爾です叔父さんの御推量の通りでしょう」と云い更に余にのみ聞える様に「是で益々アノ松谷秀子が、お紺の仲働き古山お酉だと云う事に成るでは有りませんか、何でもアノお酉が自分一人の力では行かぬから貴方をタラシ込んで相棒に引き込む為、薔薇の花も銅製の鍵も置いて行ったのです、あの女は叔父さんが此の屋敷を買う事を知り、叔父さんの家族の中に相棒がなくては了ぬと思って居ます、若し貴方を相棒にする事が出来ねば直接に叔父さんを欺し、後々此の家へ自由自在に入り込む道を開いて爾して宝を盗み取る積りです、叔父さんへ贋電報を掛けたのもあの女ですよ」
 余は此の疑いには賛成せぬけれど、爾でないと云えば八かましくなる故、無言《だまっ》て聞き流したが、其の間に叔父は咒語を繰返し「何でも図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、32−下2]という者がある筈だ図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、32−下2]は此の本の中へ秘して有
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