谷秀子は元の席へ復って居る、客は口々に主人を褒め又秀子を褒めたが、主人の芸は最一度と所望する人無けれど松谷秀子の音楽は是非最一度と後をネダる人が多い、シテ見ると秀子の芸が主人よりも上か知らん、其のうちにも余の叔父は嬉し相に立って行き再会の歓びを述べて最う一回をと言葉を添えたが其の様は恋人の有様で有る、秀子も甚く余の叔父を懐かしく思う様子で、特別の笑顔を現わしたが併し「私の音楽は二度目をお聞きに入れると荒が出ます」と謙遜して所望に応ぜぬ、其の辺の応対の様や物の言い振りの仇けない所を見ると余は実に矢も楯も耐らぬ、自分の魂が鎔けて直ちに秀子の魂に同化するような気がした、勿論余は秀子の身に何か秘密の有る事は知って居る、余自ら怪美人と云う綽名を加えた程だから、玲瓏《れいろう》と透き徹った身の上とは思わぬ。「秘書官」と云う著者で文学の嗜みのある事も分り今夜の芸で音楽の素養の有る事も分ったとは云え、或る方面から見れば之さえも怪しさの一つでは有るが、併し幾等怪しくても立派な令嬢には違いない、誰の妻としても決して非難すべき者ではない、自分自ら「私は密旨を帯びて居ます」など有体に云う所を見ても嘘偽りなどを
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