て立ち騒ぎ、旅人にも夫々注意を与えて居る、実に是は容易ならぬ、寧《いっ》そ行かずに引き返す方が安全だ、未だ虎に食われて死に度くはない。
 斯う云う評議に成って暫く途中で停ったが、常の場合ならば無論引き返す所だけれど彼の評論雑誌の記事を思い出すと如何にも引き返えすのは惜しい、事に由れば才媛と云われる「秘書官」の著者も朝倉家へ来て居るかも知れぬ、猶深く気遣えば若しや其の才媛が其の虎に食われるかも知れぬ、真逆に斯くまでは口に出さぬが叔父もこの通りの考えと見え、思い切って行く事に成った、お浦だけは少し苦情を唱えたけれど、余と叔父とが行くと云えば決して自分一人帰りはせぬ、併し此の評議の為、予定の時間より余ほど後れ、愈々朝倉家へ着いたのは夜の九時であった。
 着くと朝倉夫人が独り出迎え、三人の遅いのを気遣って居た旨を述べて「サア丁度手品が是から興に入る所です、今お客の中で籖を引き、一人其の手品の種に使われる約束で、大変な方が其の籖に中《あた》ったから、実に大騒ぎでしたよ」と、自分の亭主の素人芸を唯一人で面白がり、客には口も開かせぬのは、随分世間に在る形だ、三人は烟に捲かれた心持で、電燈の光まばゆき
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