は有るまいと自慢じゃないが思われる、余は内よりも先に外の有様を検め度いと思い、生垣に添うて一廻り巡って、終に裏庭から堀端へ出て土堤を上った、土堤を猶も伝うて行くと、読者の知っての通り、お紺婆を殺して牢死した殺人女輪田夏子の墓が有る、先に怪美人が此の墓に詣でたのを見て余は非常に怪しんだが、今度も亦詣でて居る人が有る、イヤ詣でたか詣でぬかは知らぬが、様子有りげに墓の前にたたずんで居るが、此の人は女でない。三十四五歳に見ゆる立派な紳士だ。
 余の足音を聞き、悪い所を見られたとでも思ったか素知らぬ顔で立ち去ろうとする、勿論余は引き留める事も出来ぬが、何うか其の顔を見たいと思い、顔の見える方へ足を早めた。先は真逆に逃げ走る訳にも行くまい、墓より少し離れた所で三間ほど隔てて余と顔を合わせたが、余は最早此の後十年を経て此の人を人込の中で見るとも決して見違える恐れはない、別に異様な顔ではないけれど、妙に妙に、ノッペリして、宛かも女子供に大騒ぎせられる俳優《やくしゃ》の顔とでも云い相だ、何となく滑らかで、何となく厭らしい、美男子は美男子だが余は好まぬ、恐らくは秀子とても決して好みはすまい、此の人は余と顔を合わせて宛も挨拶でも仕たそうに見えた、併し余が余り怪しむ顔をして居た為か思い直した様子で、徐々と立ち去り掛けた、何所へ立ち去る積りであろう、余は何うも見届けねば、気が済まぬ。夫とはなく見送って居ると、余が来た通りの道を取り土堤から生垣の外へ降り、頓て姿が隠れて了った、余は其の間に走って生垣の所へ行くと、先は後をも見ずに、何事をか考え考え外へ出る、是ならば振り向く気遣いもなかろうと余は猶も尾けて行ったが、或いは尾けられると知って故と背後を向かぬかも知れぬ、何うも爾らしい、爾して到頭彼の鳥巣庵へ這入って仕舞った、扨は是が鳥巣庵の主人かな、縦しや主人ではなくとも、夏子の墓の辺に徘徊する所を見ると何か一種の目的が有ってではなかろうか、鳥巣庵の窓から余を瞰《のぞ》いて居た女の影と云い、鳥巣庵が急に塞った所と云い、それこれを考え合わすと何だか偶然ではなさそうにも思われる。

第二十回 意外な人々

 余は何うも鳥巣庵の事が気に掛かる、誰が借りたで有ろう、何故に借りたで有ろう、彼の窓から余を瞰いた女は誰で有ろう、爾して彼の家に住む一人が殺人女の墓を見て居たのは何の為で有ろう。
 其のうちに宴会の時刻と為った。叔父は此の前日に数名の下部《しもべ》を引き連れて此の家へ来、松谷秀子も今朝来たと云うことで二人とも非常な好い機嫌である、来客も中々多く、後から後からと遣って来る、やがて叔父より客一同に対して、此の度松谷秀子を養女にしたとの披露も終り、客より夫々の祝詞なども済み、爾して愈々舞踏に取り掛る場合と成った、勿論客の眼は一番多く秀子に注ぎ、誰も彼も先に秀子と共に躍《おどろ》うと思い其の旨を申し込むけれど、秀子は充分に返事をせぬ。何だか物思わしげに控えて誰をか待って居る様子に見える、扨は最初の相手に余を選ぶ積りで夫で他の人を断って居るのだな、と余は斯う思って秀子の傍に行き「秀子さん何うか最初の踊りを私と御一緒に」と云うに、秀子は少しも喜ぶ様子が無い。「イイエ先刻から皆様に御断り申して居ります、今に否と云われぬ人が来るだろうと思いますから」オヤオヤ余より猶其の様な人が有るだろうか、余は聊か嫉ましい様な気がした、「其の人は誰ですか。以前から今夜の会に共に躍ると約束して有るのですか」秀子「イイエ約束はして有りませんが、若し其の人が所望すれば私は断る事が出来ません、其の人の許しを得ぬうち他の人と踊れば後で叱られるかも知れませんから」と益々異様な言い様だ。後で叱るなどとは父か所天《おっと》で無くては出来ぬ事だ、余「其の人は誰ですか。私の叔父ですか」秀子「イイエ、阿父《おとう》様では有りません」早や阿父様と云うは聊か耳立って聞こえるけれど、是は先日既に余の叔父が、爾後は阿父様と呼ぶ様に厳重に言い渡したので有る、余「叔父でなければ誰ですか、誰ですか、其の人の名を仰有《おっしゃ》い」秀子は余の熱心な有様が可笑いのか「オホホホ、其の様に仰有らずとも今に分ります」余「分る事なら今仰有い」秀子「権田時介と云う弁護士ですよ」余「エ、権田時介ですか」と余は驚いて叫び「権田時介なら私も知って居ますが彼はアノ殺人女の――」秀子「ハイ人殺しの裁判を受けた輪田お夏を弁護した其の人です」余「何故貴女は彼を夫ほど尊敬します、彼は貴女の何ですか」秀子は少し口籠って「何で有ろうとあの方の差図には、私は従わねば成りません」余「分りました、彼は貴女の未来の良人ですね」若し未来の所天ならずば、何で差し図などする者か、するとも何で従わねば成らぬ筈が有る者か、余は今までに此の女に許嫁の所天などが有ろうとは思いも寄らず
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