、深く取糺しもせずに只管心??ケたのが余り馬鹿馬鹿しい、余は何たる愚人だろう、夫にしても秀子とても、既に主の有る体なり、今までに余に打ち明けてよさ相な者だ、余の思いが日一日に深くなる事は秀子自ら知って居ねば成らぬのにと、余は殆ど恨めしく思うたが、秀子は静かに「エ、私の未来の所天、飛んでも無い事を仰有る、私は未だ所天などを定められる身の上では有りません」
所天で無くて差し図するとは聊か怪しいけれど未だ未来の所天が定まらぬとは何よりも安心だ、余は我知らず笑顔と為って、今疑った詫びを述べようとして居ると、此の所へ遽ただしく虎井夫人が遣って来た、夫人はいきなり秀子の手を取り「大変ですよ、あの人達が来ましたよ、早くお逃げなさい、サア早く」と秀子を引き立て、殆ど悔しそうに「茲まで漕ぎ着けて彼の人に逢うとは実に残念です」何の事やら余には少しも分らぬが、早く逃げよとは尋常の事では無い、虎井夫人は秀子が急に逃げようともせぬを悶《もど》かしがり「到底逢わぬ訳には行きますまいが、兎に角、暫し他の室に避け心を落ち着けて夫からお逢いなさい、ソレ斯う云う中に最う彼処へ遣って来ますよ」と云って無理に秀子を引き立てる様にして盆栽室の方へ行って了った。余は全体何者を斯う恐れるのかと振り向いて見ると、茲へ這入って来る一組の客は実に意外な人々で有る。一番先に立つのが余の元の許嫁浦原お浦で、お浦と手を引いて居るは、先刻殺人女輪田お夏の墓の辺にたたずんで居て余に認められた、彼の鳥巣庵の住人、ノッペリした紳士で有る、其の背後からお浦と共に外国に行って居た根西夫妻が遣って来る、扨は秀子が逃げたのは此の一行を恐れたに違い無い、真逆にお浦から仲働きの古山お酉などと疑われるが辛くての事でも有るまいが、兎に角余はお浦に逢って其の手を引ける紳士の名をも知らねば成らぬと思い、進み出でお浦の前に立った、お浦は平気な顔で「道さん貴方は此の方を御存じですか、之は此の塔の前の持主、不幸なお紺婆の養子で高輪田長三と云う方です、叔父さんへ此の塔を売り渡したのも此の方です」扨は是がお紺婆の相続人であるのかと、余は初めて知ったが、是でお浦の目的も分った、此の人ならば無論仲働きお酉の顔を知って居る故、夫で秀子を此の人に見せ、爾して化の皮を引剥《ひんむ》くと云う積りである、其の執念の深いには驚くが、夫にしても秀子が此の人を恐れて逃げたのは何故だろう、虎井夫人の言った事を考え合わすと、何だか看破せられるを恐れると云う様子も無きにしもあらずだ。
第二十一回 時計の音盆
お浦は全く秀子に対し戦争の仕直しに遣って来たのに違い無い、前の戦争は秀子を虎の顋に推し附け充分の勝利と云う間際で失敗した、今度は高輪田長三と云う恐る可き後押しを連れて居る、万に一つも失敗せぬ積りで有ろう。
成るほど、若しもお浦の疑う通り秀子を仲働き古山お酉とやらに化けた者とすれば、此の高輪田長三に一目見られたなら直ぐに看破される筈だ、夫にしてもお浦は何うして此の様な屈強な味方を得たで有ろう、後で聞けば、お浦が根西夫人と三ケ月ほど旅行して居るうち偶然に伊太利の宿屋で懇意に成ったと云う事だ、道理で分った、お浦は先頃より頻りに叔父の所へ詫び手紙を寄越して居た、一刻も早く此の高輪田長三を連れて秀子の化の皮を引剥《ひんむ》きたいと思った為で有ろう、叔父はそう執念深く人を怨まぬ気質で、一時はお浦の所業を怒ったけれど間も無く心が解け、帰参を許す気に成った、併しお浦へ帰参を許すは秀子に対して聊か憚る可き様に思い少し躊躇して居た様子で有ったが何に付けても思い遣りの有る秀子が夫と察し、若し私の為にお浦さんが何時までも此の家へ出入りが叶わぬ様では何だか私がお浦さんを恐れて邪魔でもする様に当り誠に心苦しいから何うか早速にお浦さんを許して上げて下さいと此の様に叔父に嘆願したと云う事だ、此の辺から見ると秀子は決して古山お酉では無い、若しお酉ならば益々お浦を避けこそすれ故々《わざわざ》口を利いて其の帰参に骨を折る筈は、決してない、トサ余は今まで全く斯う思い詰めて居たけれども、今し方、秀子が遽てて逃げた所を見ると何だか心もとなくもある、若しや秀子は、お浦には看破される恐れはないが高輪田長三に逢っては迚も叶わぬと斯う思ったのでは有るまいか。爾すれば矢張お酉かしらん。
真逆にとは思うけれど余は何となく心配で寧そ叔父が何時迄もお浦の帰参を許さねば好かったのにと、今更残念だけれど仕方がない、お浦は余に反し最う全くの勝利が見えたと安心してか、充分落ち着いて居て、今迄の様に粗暴でない、真に貴婦人の如く、物静かだ、言葉も振舞いも一寸と奥底の計り難い所がある、猶も余に向い説き明す様に「此の高輪田さんは輪田お紺の養子ですから此の頃まで単に輪田長三と云ったのですが、養子になる前の姓
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