に逢って其の美しい顔を見ると、其の様な疑いは自分で掻き消す迄も無く独りで消えて仕舞った、決して悪事をする様な顔ではない。
 此ののち秀子は毎日又――一日置きほどに此の家へ来た、多くは虎井夫人が附いて居る、偶には一人の時も有る、叔父とは既に養父養女の約束が出来て居るから親密なは当り前だが、余とも仲々親密に成った、彼の虎殺しの一条から余は秀子を命の親と思い、イヤ余の方は何うでも好い、虎殺しがなくとも何がなくとも秀子を命の親と思う、秀子が顔を見せて呉れねば余の命は長く続かぬ、秀子も自ら余の為に助かった様に思う、殊に余が一身の危険をも構わずに虎の背後に飛び降りた心意気を深く喜び、此の後とても余にさえ縋って居れば何の様な敵をも防いで呉れると思って居るらしい、余は実に有難くて耐えられぬ、勿論何の様な敵だとて防いで遣る、遣るは遣るが余も其の防いで遣る可き権利の有る身分に早く成り度い、敵に向って「何故己の妻でも何でもない女を窘《いじ》めるか」では移りが悪い、保護するには何うしても我が物と云う動かぬ証拠を踏まえてからでなくば肝腎の所で足許がグラついて力が抜ける、尤も此の権利を得るのを今では爾まで六つかしいと思わぬ、折を得て余から縁談を言い込めば難なく整い相に見えるが併し、斯う思う度に、妙に心へ浮んで来て、気に成るのはお浦の言葉だ、お浦は甚く秀子の素性を怪しんだが、実際全く何者だろう、叔父は養女にまでしたのだから定めし素性を聞いたでは有ろうが余は未だ聞かぬ、時々言葉を其の方へ向けるけれど秀子は夫となく最と巧みに返事を避け、話を外の方へ振り向けて仕舞う。僅かに聞き得たのは、此の国へ来るまで米国のルイジヤナ州の州会議員から挙げられた行政官何某の秘書を勤めて居て、爾して彼の「秘書官」と云う書を著し、其の書の出版前に米国を出たと云う一事だけだ。
 先ず此の様な様で幾月をか経たが其のうちに幽霊塔の大修繕が出来上り、愈々引き移って、茲に転居の祝いと秀子を養女に仕た披露とを兼ね宴会を開く事に成った、叔父は一方ならぬ喜びで、最う恨みだの悲しみだのと云う事は一切忘れ、成る丈世を広く、余命を面白く送ると云い、朋友は勿論、是まで疎遠に成って居る人や多少の恨みの有る人にまで招状を発し、来る者は拒まずと云う珍しい開放主義を取った、余は今まで幽霊塔、幽霊塔と世人から薄気味悪く思われた屋敷が斯くも快豁《かいかつ》な宴会の場所と為り又此の後の余等の住居になるかと思えば何とやら不思議な国へ住居する様な心地がしてただ物新しい感じがする、居心《いごころ》は何の様だろう、何の様な事柄に出会すだろうと此の様に怪しんで、其の当日宴会の刻限より余ほど早く、未だ午後五時に成らぬうち汽車で塔の村へ着いた、停車場から凡そ二哩半の道を馬車も雇わずブラブラと歩んで行ったが、今思うと是が全く一家一族、最と異様な舞台へ入る花道の様なもので有った。

第十九回 鳥巣庵

 ブラブラと歩み、幽霊塔の間近まで行くと聊か余の注意を引いた事がある。幽霊塔には隣と云う可き家がない、一番近い人家は、小さい別荘風の建物で、土地の人が鳥巣庵《とりのすあん》と呼ぶ家である、此の家と幽霊塔とは二丁の余も離れて居れど、其の間に人家はない樹木ばかりだ、だから之を隣家と云えば云っても好い、聞く所に由ると昔都の贅沢家が唯夏ばかり遊びに来る為に建てた消夏亭で有るけれど先年幽霊塔でお紺婆が殺されて以来持主は其の様な近所は気味が悪いと云い、雑作まで取り外して他の別荘へ運んで仕舞い、爾して此の家は幽霊塔同様に立ち腐れに成って居た相だ。今まで余が此の土地へ来る度に其の家の壁に「雑作なし、貸し家」と云う朽ち掛けた札の下って居るのを見た、所が今度は、是も幽霊塔同様に誰か借り手が出来たと見え、其の札もなくなり、爾して中へは一通り雑作を仕た様子で、内外の掃除も届き、一目で以て中に人の気の有る事が分るのみならず矢張り今日が引越しと見え、多少の荷物などを停車場の辺から車で引いて来て箱に入れて居る、ハテ扨、此の借受人は何者で有ろうと、余計な事ながら余は其の家の窓を見たが、窓に誰だか人が居て、遽てて其の戸を締めて了った、何でも窓から首を出し余の様子を見て居たらしい、それが反対に余から認められるが厭だと思い急に戸を占めたのでは有るまいか、勿論誰だか分らぬけれど瞰《のぞ》いて居たのは若い婦人らしい、戸を締める途端に、華美な赤い着物が余の目へチラと見えた。
 けれど取り糺す訳に行かぬから余は其のまま去って幽霊塔まで行ったが、前に見た時とは大違い、手入れ一つで斯うも立派に成る者かと怪しまるる程に、塔の年齢が三四代若返って居る、殊に屋敷の周囲に在る生垣などは、乱雑に生え茂って垣の形のない程に廃れて居たのが、今は綺麗に刈り込んで結び直し、恐らく英国中に是ほど趣きの有る生垣
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