けて居る者とすれば迚も此の言葉に敵する事は出来ぬ、顔を赤めるとか遽《あわ》ててマゴつくとかする筈だ、処が怪美人は少しもマゴつかぬ、唯単に合点の行かぬと云う風で而も極めて穏かにお浦に振り向き「オヤ貴女の仰有る事を聴くと、何だか私が其の古山お酉だと云う様にも聞こえますが――」お浦「などと幾等おとぼけ成すっても無益ですよ、お酉が其の後米国へ渡った事まで知って居る人が有るのですから」怪美人は宛もお浦を狂気とでも思ったか全く相手にするに足らぬと云う風で「オヤ爾ですか」と云い、頬笑んで止んで仕舞った、若し此の頬笑みが通例の顔ならばセセラ笑とも見えるで有ろうが、非常に美しい此の美人の顔にはセセラ笑いなどと云う失敬な笑いは少しも浮ばぬ。何所迄も愛嬌のある頬笑だ、余は此の有様を見て全く此の美人松谷秀子が古山お酉でないと云う事を見て取った。尤も此の様を見ずとても下女や仲働きが「秘書官」と云う様な文章も観察と共に優れた本を著わし得る筈はない故、少し考えればお酉でないと充分に分る所では有るのサ。
斯う軽く受け流されて浦原嬢は全く焦気《やっき》だ「オヤ、オヤ、夫では貴女はお酉を知らぬなどと白ばくれ成さるのですか」怪美人「イイエ私はお酉を能く知って居ますよ、今は何所に居るか知りませんけれど幼い時は友達の様に仲能く致しました」この打ち明けた而も訳もない返事に、お浦はギャフンと参った、ギャフンと参って何うするかと思うと「エ、悔しい」と云って立ち上り「何方も私には加勢して下さらぬ、道さんまで知らぬ顔で居るのだもの」と恨めし相に泣き出した、思えば可哀相にも有る、全く自分の間違った疑いの為自ら招いた失敗だとは云え満座の中で大声に言い出した事が少しも功能無しに終るとは成るほど悔しくも有ろう。
叔父も非常に当惑の様子、余も捨て置き難い事に思い、お浦を取り鎭めようとすると、物慣れた当家の夫人がお浦を抱いて、宛で、小供を取り扱う様に「貴女は未だ幼い時から我儘に育った癖がお失せ成さらぬから了ません、第一其の様に人を疑う者ではなく、疑ったとて此の様な所で口に出す者では有りません、口に出せば自分の方が恥ずかしい思いをするに極って居ますよ、殊に松谷さんは「秘書官」の著者でも有り立派な紹介を以て此の国へ来た方ですもの」此の当然な戒めに少しは合点が行ったか「ハイ私が悪う御座いました、相手は下女の癖に大勢の人様に、全くの令嬢だと思わせる様に智慧に逞しい女ですもの私一人の力に余るは知れた事です、爾と気附かずに相手にして此の様な目に逢ったは全く私が馬鹿な為です」と何処までも怪美人を下女にして仕まって憤々と怒ッて此の室を出た。
余は松谷秀子にも済まぬが兎も角お浦を捨て置く訳に行かぬから引き続いて室を出たが、見るとお浦は当家の夫人に送られて、慰められつつ自分に充行《あてがわ》れてある二階の室へ這入って仕舞った、余は直ぐに元の客間へ帰って行くも何となく極りが悪く、少し廊下でグズグズして凡そ二十分も経った頃一同の前へ出たが、一同は余ほど興を覚し、単に一座のテレ隠しの為に松谷秀子を強いて再び音楽台へ推し上せたと見えて、秀子が又も琴台に登って居る、けれど秀子も何となく沈んだ様子で音楽も甚だ引き立たぬ、其の傍に附き切りで秀子の為に譜の本を開いて遣りなどする親切な紳士は年にも恥じぬ余の叔父で有る、叔父は余の居ぬ間に余っぽど秀子にお詫びを申したらしい。
其のうちに客も一人二人と次第に退き去り、全く残り少なと為って愈々会も終りになった、秀子は曲を終って降りて来たが、第一に余の傍へ来て「本統に私は浦原嬢にアノ様に立腹させて済みませんでした、直ぐに私も自分の室へ退こうと思いましたが皆様が夫では猶更本統の喧嘩らしくなるとて達ってお留め成さる者ですから」余「イエ何も貴女が済まぬなど仰有る事はありません、全くお浦が貴女へアノ様な無礼な言い掛りをしたのですよ」秀子「此の様な時は虎井夫人でも居て呉れますと又何とか皆様へお詫びをして呉れますのに」余は此の言葉を聞き、初めて虎井夫人の居ぬに気が附き「オヤあの夫人は何うしました」秀子「ハイ獣苑の虎が抜け出したと聞いて、若しも大事の狐猿を噛み殺されては成らぬと云い倫敦まで逃げて帰りました」
言って居る所へ給使の一人が何か書き附けの様な者を持って来て秀子に渡し「直ぐに御覧を願います」と言い捨て立ち去った、秀子は「誰が寄越したのだろう」と云って開き読んだが、余はチラと其の文字を見て確かにお浦が寄越したのだと知った、扨は男ならば決闘状の様な者では有るまいかと、此の様に思ううち秀子は読み終って立ち去ろうとする、余「お浦から呼びに寄越したのなら、何もお出なさるに及びません、私が貴女に代ってお浦に逢いましょう」秀子「イヽエ、自分で行かねば宜く有りません、益々我が身に暗い所でも有る様に
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