手際だから客一同は喝采した。真に満堂割るる許りの喝采で、中には「朝倉男爵万歳」とまで褒める者も有った。猶も見て居る中に此の美人、即ち松谷秀子は、充分主人に頼まれた者と見え、其の所に在る音楽台に行き、客一同に会釈して音楽を奏し始めた、その上手な事は実に非常だ、爾して謡う声も鶯喉《おうこう》に珠を転すとやら東洋の詩人なら評する程だ、満堂又も割れる許りの喝采が起った、今度の喝采は全く怪美人の芸を褒めるので、主人男爵は与《あず》からぬのだ、頓て音楽が終ると美人の身体は段々に小さくなり何時の間にか幻燈の影と変って、羽の生えた天人の子供と為り天上の楽園の舞と成って終った、イヤサ黒人の幻燈なら此の通り手際好く終る所で有ろうが、流石は素人――イヤ流石などと褒めるには及ばぬ――其所は素人の悲しさで、幻燈の影を美人と差し替える事は出来るが、其の美人を逆戻しに段々小さくして元の幻燈の影にする事は出来ぬ、実は音楽の終ると共に手取り早くパッと燈光を消して満堂を元の暗にして結局を附けた、寧そ此の方が厭味が無くて好いと客の半分ほどは止むを得ずお世辞を云った、仲々お世辞の言い方は有る者だ。
 再び満堂が明るくなると松谷秀子は元の席へ復って居る、客は口々に主人を褒め又秀子を褒めたが、主人の芸は最一度と所望する人無けれど松谷秀子の音楽は是非最一度と後をネダる人が多い、シテ見ると秀子の芸が主人よりも上か知らん、其のうちにも余の叔父は嬉し相に立って行き再会の歓びを述べて最う一回をと言葉を添えたが其の様は恋人の有様で有る、秀子も甚く余の叔父を懐かしく思う様子で、特別の笑顔を現わしたが併し「私の音楽は二度目をお聞きに入れると荒が出ます」と謙遜して所望に応ぜぬ、其の辺の応対の様や物の言い振りの仇けない所を見ると余は実に矢も楯も耐らぬ、自分の魂が鎔けて直ちに秀子の魂に同化するような気がした、勿論余は秀子の身に何か秘密の有る事は知って居る、余自ら怪美人と云う綽名を加えた程だから、玲瓏《れいろう》と透き徹った身の上とは思わぬ。「秘書官」と云う著者で文学の嗜みのある事も分り今夜の芸で音楽の素養の有る事も分ったとは云え、或る方面から見れば之さえも怪しさの一つでは有るが、併し幾等怪しくても立派な令嬢には違いない、誰の妻としても決して非難すべき者ではない、自分自ら「私は密旨を帯びて居ます」など有体に云う所を見ても嘘偽りなどを云う様な暗い心でない事も分って居る、余は斯う思うと余り叔父と秀子との仲の好いのが気に掛かり、邪魔すると云う訳ではないが同じく秀子の傍へ行って、叔父を推し退ける程にして挨拶した。
 すると此の時、余の背後で、満場の人々に聞こえよがしに、大きな声をする者がある、それは浦原嬢だ、イヤ浦原嬢と許りでは読者に分るまい、例のお浦である、お浦の本姓は浦原と云い他人からは浦原嬢と呼ばれて居るのだ、浦原嬢は強いて此の怪美人の傍へ来るは見識に障ると思ったか顋《あご》で松谷嬢を指して「本統に貴女は化けるのがお上手です」と叫んだ、褒め様も有ろうのに化けるのがお上手とは余り耳障りの言葉ではないか、満場の人は異様に聞き耳を立てた様だ、松谷嬢は気にも留めず唯軽く笑って「私が化けたのではなく幻燈の光が化けさせて呉れたのです」浦原嬢は此の返事を待ち設けて居た様子で「アレ彼の様におとぼけ成さる、今夜の事では有りませんよ、仲働きが令嬢に化けるを云うのですよ」扨はお浦め、此の美人を昔のお紺婆の雇人古山お酉とやら云う仲働きとの兼ねての疑いを稠人《ちょうじん》満座の中で発《あば》いて恥を掻せる積りと見える、去れば怪美人は全く其の意味が分らぬ風で「エ貴女の仰有る事は、何だか私には」お浦「お分りに成りませんか、私は又仲働きとさえ云えば直ぐにお紺婆の仲働きとお悟り成さって何も詳しく申して貴女に赤面させずに済むだろうと思いましたのに、お分りがないなら詮方なく分る様申しましょう、婆あ殺し詮議の時に色男と共に法廷へ引き出された古山お酉と云う仲働きの事ですよ、ハイ下女の事ですよ、其のお酉が下女の癖に旨く令嬢に化け果《おわ》せたから夫で呆れる、イヤ感心すると褒めたのです」余は此の言葉を聞きお浦を擲倒《はりたお》して遣り度い程に思ったが爾も成らず、且は此の美人が果してお酉で有るか否やを見極め度いと云う心も少しは有る、何も自分だけは好い児に成ってお浦が確かめて呉れるのを待つと云う猾い了見ではないけれど、唯其の心が少し許りある為に、お浦を擲り倒すのを聊か猶予した、聊か猶予の間に争いは恐しく亢じて仕舞った。

第十三回 毛髪悉く逆立つ

 お浦の言い方は実に毒々しい、乙に言葉を搦《から》んでは有るけれど全く抉《えぐ》る様に聞こえる、此の抉り方は女の専売で、男には何うしても出来ぬ事だ、若し怪美人が真に古山お酉と云う下女で旨く令嬢姿に化
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