見を聞き度いと云い、此の後は何の様な招待にも必らず応じて出掛けて行く事にした、是は総ての招待に応ずれば一週間と経ぬ中に廻り逢う様に言ったあの怪美人の言葉を当てにしての事らしい、勿論余も最一度怪美人に、逢い度いから必ず叔父に随いて行く、お浦も同じく逢い度いのか随いて行く、けれど仲々廻り逢う事が出来ぬ、其の中に叔父は何所で探ったか一冊の本を買って来て余に示したが、其の本は「秘書官」と題した小説(だか実験談だか)で、米国で出版した者だ、著者は「松谷秀子」とある、叔父は之を余に示して「アノ方は米国の令嬢と見える、爾して此の様な書を著す所を見ると仲々学問も有る、事に依ると女ながらも米国政治家の私雇の書記でも勤めて居た者では有るまいか」と云われた、余は受け取って其の本を読んで見た、小説としては少しも面白い所はないが、如何にも米国の政治家の内幕を能く穿った者で、文章の美しい事は非常で有る、大体の目的は米国の平民主義の共和政治とを嘲り暗に英国の貴族制度と王政とに心を寄せた者だ、此の様な書は米国で好く言われまいけれど、英国の読書家には非常に歓迎せられるだろうと、余は此の様に思ったが、果せる哉是より数日を経て評論雑誌に此の書の評が出て、甚く著者の才筆を褒め、猶此の書の著者が先頃より此の英国へ来て居る、一部の交際社会に厚く待遇されて居ることや、目下サリー地方を漫遊して居る事まで書き加えて有る。
此の時宛も其のサリー地方の朝倉と云う家から叔父の許へ奇妙な招待状が来て居た、奇妙とは兼ねて色々な遊芸を好む其の家の主人(朝倉男爵)が此の頃新たに覚えた手品を見せ度いと云うので有る、素人手品は総ての素人芸と同じく当人には甚く面白いが拝見や拝聴を仰せ付けられる客仁に取っては余り有難い者でない、朝倉男爵は通人だけに其の辺の思い遣りも有ると見え、猶隣の郷へ恰もチャリネとて虎や獅子などを使う伊太利の獣苑興行人が来て居るから夫をも見せると書き添えて有る、虎にしろ獅子にしろ叔父は余り其の様な事を好まぬ気質で、此の招待は断るなどと云って居たが、評論雑誌の記事を見てから急に行く気になり、相変らず余とお浦とは附き随われて出掛けて行ったが、途中で大変な事件を聞いた、夫は外でもない、チャリネ先生が印度とか亜弗利加とかから生け捕って来た大きな虎が、夜の間に柵を破って行方知らずと成ったと云う事で、警官などが容易ならぬ顔をして立ち騒ぎ、旅人にも夫々注意を与えて居る、実に是は容易ならぬ、寧《いっ》そ行かずに引き返す方が安全だ、未だ虎に食われて死に度くはない。
斯う云う評議に成って暫く途中で停ったが、常の場合ならば無論引き返す所だけれど彼の評論雑誌の記事を思い出すと如何にも引き返えすのは惜しい、事に由れば才媛と云われる「秘書官」の著者も朝倉家へ来て居るかも知れぬ、猶深く気遣えば若しや其の才媛が其の虎に食われるかも知れぬ、真逆に斯くまでは口に出さぬが叔父もこの通りの考えと見え、思い切って行く事に成った、お浦だけは少し苦情を唱えたけれど、余と叔父とが行くと云えば決して自分一人帰りはせぬ、併し此の評議の為、予定の時間より余ほど後れ、愈々朝倉家へ着いたのは夜の九時であった。
着くと朝倉夫人が独り出迎え、三人の遅いのを気遣って居た旨を述べて「サア丁度手品が是から興に入る所です、今お客の中で籖を引き、一人其の手品の種に使われる約束で、大変な方が其の籖に中《あた》ったから、実に大騒ぎでしたよ」と、自分の亭主の素人芸を唯一人で面白がり、客には口も開かせぬのは、随分世間に在る形だ、三人は烟に捲かれた心持で、電燈の光まばゆき廊下を通り、笑い動揺めく声が波の様に聞えて居る大広間へ這入ろうとすると、此の時満堂の電燈が一時に消えて全く暗《やみ》の世界となった、余も叔父も驚けばお浦も「アレー」と叫んだが主夫人は暗の中で説明し「ナニお驚くに及びませんよ、是が手品の前置きですよ、丁度パノラマへ這入る前にお客の目を暗まして置いて夫から大変な者を見せるのと同じ事です」とて、探りに探りに三人を大広間へ入れたが暫くすると堂の中が少しずつ明るくなり、正面の青白い幕へ、幻燈の画の様に、美人の姿が現われて動き始めた、尤も此の美人は背の高さが僅かに二尺位だから本統の美人で無く、幻燈の影であるに極って居る、所が篤と見て居る中に其の影が段々大きくなり、遂に本統の美人と為って、嫣然《にっこり》と一笑したが、読者よ、何うであろう、其の美人は擬《まご》う方も無い松谷秀子であった、余も叔父も逢い度いと思って居た怪美人だ、成るほど客の中から一人籖に中り手品の種に使われる事に成ったを今主夫人の云ったのが此の才媛で有ったと見える。
第十二回 化けるのがお上手
幻燈の影が何時の間にか本統の美人と為るのは別に珍しくは無い芸だ、併し素人としては仲々の
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