思われましては」と、斯う云い捨て廊下へ出た、此の時叔父は外の紳士と何事をか話して居て秀子を送る様子も無いから、余は自分で送ろうと思い続いて廊下へ出た、実はお浦と秀子の間に又何の様な争いが有ろうかと多少は心配にも堪えぬのだ、爾して廊下へ出ると早や秀子はズット先に居て右の方へ曲ろうとして居る、其所まで行くと又既に先の方の階段の所まで行って、丁度其の階段の下に在る銃器室とて鉄砲ばかり置いて有る室の中へ這入って仕舞った、銃器室で面談とは奇妙だと思ううち、階段の影から女の姿が忍び出た、之はお浦だ、其の忍び出る様は宛も泥坊猫が物を盗みでもする時の姿の様に見えた、扨は続いて銃器室へ這入るのかと思って居るうちお浦は這入りはせず、外から銃器室の戸へ錠を卸した、オヤオヤお浦は怪美人を銃器室へ閉じ込めたのだ、何の為だか少しも分らぬ、余は足を早めて其の所へ行ったが此のときお浦は早や階段の中程より上まで登り、其所から銃器室の窓を瞰下《みおろ》して爾して二階へ登り去って見えなく成った、余は益々お浦の所行を怪しみ、銃器室の戸を推して見ると全く怪美人は此の中へ閉じ籠められたに違いない、戸には錠が卸りて仲々開かぬ、鍵はお浦が持ち去ったので茲にはない、何にしても秀子の身の上が気遣われるから余は詮方なく階段を上り、丁度お浦が瞰《のぞ》いた通りに、銃器室の窓から其の中を窺《のぞ》いて見た、読者諸君よ、此の時の余の驚きは、仲々「驚き」など云う人間の言葉で盡され可き訳な者でない、毛髪悉く逆立った、其のまま身体が化石するかと疑った、何うだろう銃器室の一方に大きな虎が居て、今や怪美人に飛び附こうと前足を短くして狙って居るのだ、分った、お浦は此の室に虎が紛れ込んで居るのを見て松谷秀子を此の室へ誘き入れたのだ。
第十四回 虎は早や余の上へ
余は何れほど驚いたかは、読者自ら此の時の余の地位に成り代わって考えれば分るだろう、此の時の驚きは到底筆や口に盡す事は出来ぬ。読者銘々の想像に任せるより外はない。
真に咄嗟の間では有るけれど余が心は四方八方に駈け廻った、第一お浦の邪慳なのに驚いた、如何に腹が立ったにもせよ人を虎穴も同様な所へ欺き入れ、爾して外から錠を卸して立ち去るとは何事だろう、余はお浦を斯くまでも邪慳な女とは思わなんだが実に愛想が盡きて仕舞った。今まで仮初《かりそめ》にも許嫁と云う約束を以て同じ屋根の下に暮して来たのが、忌々しい、併し夫よりも差し迫った問題は何うして此の松谷秀子を虎の顋から救い出すかと云うに在るのだ、余は秀子の様を見て其の最と静かに落ち着いて居るにも驚いた、秀子は虎の恐ろしい事を知って居るか知って居ないか、見た所では殆ど知って居ないと思わるるほど落ち着いて、虎に向ったまま睨み合って居る、真に泰然自若とは此の事だ、感じの有る人間に、何うして此の様な場合に斯うも落ち着く事が出来るだろう、余りの事に虎までも少し呆気に取られ、相手の胆略を計り兼ねて大事を取って居るらしい、併し何時まで虎が猶予して居る者ではない、助けるなら今の間だ、今の間に何とかせねば成らぬ。
何とかとて何と仕様もないけれど、ないと捨て置く事は出来ぬ、余は必死と考えて、何うしても余自から虎と秀子との間へ飛び降り自分を秀子の身代りとして虎に噛ませ、爾して其の間に秀子を逃げさせる外はないと決心した、余の今瞰いて居る窓から、銃器室へ飛び降りるは左まで六ずかしいことでない、けれど飛び降りると、虎と秀子との間へは行かず、丁度虎の背後へ落ちる事になる、併し夫も好かろう、虎は自分の背後へ急に何者か落ちて来たを知り、驚いて振り向くに違いない。振り向いて何うするだろう、直ちに余を取って押えて噛み殺すが一つ、驚いて元自分の這入って来た窓から逃げ出すが一つだ、若し逃げ出すとせば此の上もない幸いよ、丁度虎の這入って来たと思われる窓は、秀子の這入って来た入口と相対し、庭の方に開け放しに成って居る、虎が立ち去る気に成れば、何時でも立ち去ることは出来るのだ、唯少し工合の悪い事は、其の窓から立ち去るには、背後に落ちた余の身体を踏み越して行かねばならぬ、虎が少しも余を害せずに穏かに踏み越して行く様な事をするだろうか、少々覚束無いけれど仕方がない、運を天に任せて遣って見るのサ。
余が此の通り決心したのは少しの間だ、話すには長く掛かるけれど、実際は二分とは経って居ぬ、余は何事も決心すると同時に実行する流儀ゆえ、思案の定まるが否や直ぐに窓の横木へ手を掛けて足から先へ虎の背後の方へブラ下り、自分の身を真直ぐに垂れて置いて爾して手を離し、丁度虎の背後へドシリと大きな音をさせて落ちた、兼ねて余は体操に熟達して居る故、是しきの事は訳も無く不断ならば下へ落ちて倒れもせずに其のまま立って居る所だのに、此の時は余ほど心が騒いで居たと見え、落ちる
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