子でもなく生まれてからの丸部春子です」叔父は春子と云う其の名さえも懐かしいと見え「オオ春子、春子、此の己が妻と相談して附けた名だ」秀子は此の言葉にも話の筋道を失わず「多分はお紺が私を養女にして置けば、絶えた丸部総本家の遺産が世に現われても法律の事から人に争われるに及ばぬと思っての為でしょう、其の様な事は後に成って気が附きました、それから程経て、牢に入った時私は輪田の姓を名乗って居て好かったと思いました、若し丸部春子と云う名前で此の様な嫌疑を受ければ、昔から汚れた事のない丸部一家の名を、私に至って初めて汚し先祖に対しても父上に対しても申し訳のない所でした、けれど牢に入った其の時から何う有ってももう一度此の世に出ねば成らぬ、出た上で此の罪が自分でない事を知らせ、爾して母上の遺命を果たさねば成らぬと固く心に誓いました」
 此の様な深い仔細の有る女と誰が思いも寄ろう者ぞ、「其の後漸く牢からは出ましたけれど、愈々此の身の潔白を知らせる事が出来るや否や覚束なく、幾度か絶望して、迚も念願が届かぬ様なら寧《いっ》そ輪田夏子の儘で、汚名を被せられた儘で、終わったが好かったのにと思いました、若し此の汚名が晴れぬ間は、ハイ其の誠の罪人を探し出し、全く輪田夏子は無実の罪で刑せられたと誰に向かっても明らかに言い切る事の出来る様に成らぬ間は、決して此の身の素性を知らせては成らず、縦しや父上に逢ったとて母の遺言を果たす事が出来ぬもの、此の身は自分の姓名でない姓名の下に生涯を送らねば成らぬ者と、斯う思い定めました、それが為に、父上をも世間の人をも欺かねば成らぬ事と為り今が今まで偽りし身を以て此の家に入り込んで居ましたのは母上の罪と共に幾重にもお許しを願います」
 叔父は「オオ娘で有ったのか」と幾度も繰り返して、小児《こども》を抱く様に秀子、イヤ春子を抱き、春子も亦親に親しむ小児の様に父の胸に顔を当て只涙に暮れて居た、其のうちに叔父は気を取り直した様子で余に向かい「此の子が丸部春子と分れば、勿論此の家の後継で有る、コレ道九郎、兼ねて後継として養子にして有る其の方と夫婦たる可き事は無論である、殊に其の夫婦約束までしていた者を、俄に他人同様と為ったとは何う云う訳だ、定めし仔細も有ろうけれど――」と言い掛けて猶言葉も終わらぬに、聞いて居た権田時介は全く感奮した様で身を投げ捨てる様に立ち上った、悪人が翻然として善人に立ち返るは此の様な時で有ろう、況《ま》して彼は悪人でなく、聊か感情の強いのみで殊に義侠の気さえ有る男ゆえ、面前《まのあたり》に見る有様の為全く其の義侠の心が絶頂に達したのであろう、断乎たる決心の籠った声で「ハイ其の仔細は私が二人を引き放したのです、秀イヤ春子嬢の潔白な事を証明するから其の代わり、道九郎君は嬢に憎まれる様に仕向けよと、私が無理に約束を結ばせました、けれど今は到底二人を引き離す事の出来ぬのを曉《さと》りました、ハイ道九郎君が何れほど辛い想いをして何れほど正直に其の約束を守ったかを考えれば私とてもそれに劣らぬ辛い想いに堪え得る事を示さねば成りません、サア道九郎君、嬢は全く貴方の外に嬢の所天《おっと》たる可き人はないのです、約束は消滅しました」と云って嬢と余の手を握り合わさせた、余は嬉しさに夢中と為り何時の間に権田が立ち去ったか知らなんだ。

 此の上の事は話すに及ばぬ、幽霊塔の話は是で終わった、後は唯其の後の成り行きを摘《つま》んで記そう。
 虎井夫人は又此の家へ、帰って来ると云わぬ許りに狐猿を後に残し、人に油断をさせて置いて立ち去ったまま帰って来ぬ、森主水の探った所では自分の弟穴川甚蔵の許へ逃げて行き、甚蔵及び彼の医学士大場連斎と共に、濠洲へ出奔したらしいとの事、兎に角養蟲園はガラ空で、彼の幾百千とも数知れぬ蜘蛛が巣を張るのみである。狐猿は今千艸屋に飼われて居る、浦原お浦は米国へ行き女役者の群に入り何所か西部の村々を打ち廻って居る相だ、天然に狂言の旨い女だから本統の嵌役《はまりやく》と云う者だろう、時介は直ちに外国へ漫遊に出て未だ帰らぬ、余と春子の間には玉の様な男の子、イヤ是は読者が羨むから云わずに置こう。
 シテ彼の塔の底の宝は、然し彼の宝は血統《ちすじ》の上から余の物でも叔父の物でもなく、全く春子の物である、其の仔細は叔父朝夫は丸部総本家から数代前に分れた家筋で血筋が遠い、血筋の一番近いのは叔父の妻で有った夫人で、其の死んだ後は其の腹に出来た春子が当然の権利者で有る、殊に血筋を離れて云うも、幽霊塔の前の持主輪田お紺の遺言に養女輪田夏子、実は春子、を相続人として有ったので、此の方から見るも幽霊塔全体が夏子の物だ、唯夏子が牢死したとなった為自然高輪田長三の物に成って居たが、夏子が生きて居れば長三の権利さえ権利とは云われぬ質の権利で有った、爾れば
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