紺婆に噛み附かれた歯の痕が三日月形に残って居て、確かに輪田夏子だと分りました、夏子は痛く驚き怒って、此の秘密を他言せぬ様に堅く誓いを立てねば此の室を出さぬなど云い、甚い剣幕で私へ迫りました。私は之が養母をまで殺し、牢から脱け出て来た女かと思えば、唯の一刻も差し向かいで居るのが恐ろしくなり、何うかして室の鍵を奪い、戸を開いて逃げ出し度いと思い、再び争いを始めました、今度は口だけの争いではなく、身体と身体との争いです、私は鍵を取ろうとする、向こうは取られまいとする、組んづ解《ほぐ》れつ闘いますうち私は滑らかな床に足を辷らせ、自分で※[#「※」は「てへん+堂」、読みは「どう」、177−上6]と倒れました、此の時次の室の片隅から苦痛に耐えぬ声が聞こえました。
「是は貴方の声でしたが二人はそうとは知らず、さて聞いて居る人が有ったのかと一方ならず驚きました、けれど何方かと云えば秀子の方が私よりも深く驚いたのです、私は人に聞かれたとて大した迷惑は有りませんのに、秀子は誰にでも聞かれては全く身分を支える事が出来なくなります、夫ゆえ秀子は声を聞いて其の方へ馳せて行きましたが、其のあとで私の紛失と云う奇妙な事が出来たのです。
「お浦の紛失とか浦原嬢の消滅とか云って非常に世間が怪しんだ相ですが、爾まで怪しむにも及びません、私が床に仆れて起き上ろうとして居ると、横手の方から又異様な物音が、最と微かに聞こえました、振り向いて見ると、今まで戸も何もなかった壁の一方に、葢《ふた》を開けた様に戸が明いて居て、爾して、其の所から高輪田長三が顔を出して居るのです、私は何うして此の戸を脱け出そうかと苦心して居る時ゆえ此の様を見て嬉しく思いました、長三は総て様子を聞いて居たと見え、唇へ指を当てて私を招くのです、其の心は声を立てずに密に茲まで来いと云うのです、其の通りに私はソッと立って其所へ行きましたが長三は壁の間の暗い所へ私を引き入れ、何の音もせずに其の戸をしめて了い、爾して云いました、此の様な秘密の道の有る事は自分の外に知る者がないのだから是切り姿を隠して了えば充分秀子を窘《いじ》められると。
「私は、唯秀子を窘めると云う言葉が嬉しく、何分宜しく頼みますと答えました所、長三は私の手を引き壁の間から床の下へ降り、爾して穴倉の様な所へ私を入れて置いて、後ほど迎えに来るから夫まで静かに茲に居ろと云い、其の身は直ぐに立ち去りました、私は何処を何うすれば外へ出られるか少しも案内を知りませんから唯長三の言葉に従い彼の迎えに来るのを待って居る外はなかったのです。
「夜に入って後、彼は迎えに参りました、此の時は忍び提灯を持って居ましたから分りましたが、彼は一方の手に、書斎に在った卓子掛けを持って居るのです、兼ねて私も見覚えの有る印度の織物ですから、何んの為に其を持って来たと問いましたら、無言《だまっ》て見てお出でなさい、これが成功の種に成るのですと答えました、此の時は合点が行きませんでしたけれど、後で分りましたが、堀の中へ或る女の死骸を投げ込んだとき、其の卓子掛けに包みました」
余は是まで聞いて殆ど恐ろしい想いがした、堀から出た彼の死骸も高輪田長三の仕業で有ったのか、彼の悪事は何れほど底が深いかも知れぬけれど、恐ろしさより先に立つは不審の一念だ、彼の死骸が何者であるかは今以て解釈の出来ぬ問題で、森主水は其の時、死骸に首の無いだけ却って手掛かりが得易いと云い、又其の首は倫敦で尋ねればなどと云ったが、果たして倫敦で充分の手掛かりを得たのであるか、未だ其の辺の事情を聞かぬけれど、兎に角も其の怪しさは今猶昨の如しである、之が今茲でお浦の口から分るかと思えば殆ど後の言葉が待ち遠しく思われ「シタが彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余は問い掛けた。
第百一回 本統の悪魔
「彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余の問う言葉に、お浦「彼は高輪田が倫敦から得たのです」倫敦から得たと云えば、何うやら森主水の其の時の言葉が全く無根でもなさそうだ、余「エ倫敦から」お浦「ハイ能くは知りませんけれど、何でも解剖院の助手に賄賂を遣り、アノ様な死骸を買って来たのです」開いた口が塞がらぬとは此の事だろう、解剖院から窃に死骸を買い取るなどは何所まで悪智恵の逞しい男だろう。
お浦「私の見た時は、既に首がなかったのです、多分首は倫敦で其の助手に切り捨てさせ、外の死骸と共に焼くか何か仕たのでしょう、夫だから彼の死骸が何所の何者だと云う事は分りません、何所かの貧民病院で何かの病気で死んだ女だろうと思われます」余「貴女が其の様な恐ろしい目ろみに賛成したとは驚きました」口に斯くは云う者のお浦の今までの挙動を考えて見れば、実は驚くにも足らぬのだ、曾ては秀子を虎の居る室に誘い入れ、其の生命を奪おうとまで仕たではないか、
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