田が家の入口に立ち、探偵又は盗賊《どろぼう》など総て忍びの職業をする者が用うる様な忍び提灯を高く差し附け門札の文字を読んで居る、爾して余の近づく足音に、其の者は直ちに提灯を消し、コソコソと暗《やみ》の中へ隠れて了った、何者であるか更に想像は附かぬけれど確かに帽子を眉《ま》深に冠り、目には大きな目鏡を掛けて居た様に思われる、通例の人ではなく、他人に認められるを厭う人だと云う事は是だけで分って居る。
併し余は自分の身に疚《やま》しい所がないから、敢えて恐れぬ、深く詮索の必要が有ろうとも思わぬ、縦しや有った所で実に詮索する便りもないのだ、其のまま余は中に入り権田の室の戸を叩くと、中には何だか話し声が聞こえて居たが、戸の音に連れ、其の声は忽ち止まり、遽しく物など片付ける様な音が聞こえた、余の察する所では密話の相手を次の間か何所かへ退かせたのだ。
爾して置いて中から戸を開いたのは権田自身である、戸の間から差す燈の光に見れば、彼は肝腎の話を妨げられて忌々《いまいま》しと云う風で顔に一方ならぬ不機嫌の色を浮べて居る、殆ど眉の間に八の字の皺を寄せて居ると云っても好い、彼は余の顔を見て「オヤ丸部さんですか」と云ったが「サアお這入りなさい」とは言わぬ、寧ろ「お帰りなさい」と云い度げに構えて居る、余も爾《さ》る者だ、「御覧の通りです、他の人では有りません」と答えて無躾に戸に手を掛け引き開けて、殆ど権田を拒退《おしの》ける様にして室の中に入り、「先《ま》あ掛けさせて呉れ給え」と有り合わす椅子の上に腰を卸した。
第八十六回 差し当りの問題
無理に室の中へ入って、無理に腰を卸した余の無遠慮な振舞いに権田時介は少し立腹の様子で目に角立てて余の顔を見詰めたけれど頓て思い直したと見え「アア何うせ貴方とは充分に話をせねば成りません、寧《いっ》そ今茲で云う丈の事を云い、聞く丈の事を聞くとしましょう」とて、始めて座に就いた。
余は先ず来意を述べ「今夜来たのは松谷秀子の身に就いて篤と御相談の為ですが、第一に伺い度いは、貴方の両三日来の振舞いです、貴方は巴里のレペル先生の許から顔形を持って来た相ですが其の顔形を何うしました」
随分短兵急の言葉ではあるが、権田は物に動ぜぬ日頃の持ち前に似ず、殆ど椅子から飛び離れんとする迄に驚いて「エ、巴里のレペル先生とな、何うして其の様な事を御存知です」余は言葉短かに養蟲園の事柄から巴里へ行って来た次第をまで述べ終り、「多分貴方が秀子を劫《おびや》かす為に顔形の複写を作らせただろうと鑑定しましたが、其の複写を何うしました」権田「お察しの通りに致しました、帰ると直ぐに秀子の許へ送りました」余「エ、既にですか」権田「ハイ既にです」余「爾して其の結果は何うなりましたか」権田「私の予期した通りになりました」
余は今以て秀子を気遣う心が失せぬ、畢竟其の心が失せねばこそ、此の通り権田の許へも立ち寄った訳では有るが、此の言葉を聞いては猶更気遣わしい心が増した、秀子が余の叔父に毒害を試みた事が何うも確からしいとは云えそれでも無暗《むやみ》に秀子を窘《いじ》めて懲らせようとは思わぬ、何うか穏便な取り計いで、余り窘めずに方を附けたい、余「権田さん、夫は甚いと云う者です、秀子は昨今身に余る程の心配を持って居ますのに夫を又劫かすなどとは余り察しのない仕方では有りませんか」権田「イヤそれもこれも総て貴方の所為です、貴方が秀子の心を奪うたから私は止むを得ず邪慳な挙動に出るのです」余「エ何と、私が秀子の心を奪うた」権田「勿論です、秀子は本来私の妻たる可き女です、最う貴方は秀子の素性を能く御存じゆえ、少しも隠さずに云いますが、牢から秀子を連れ出したも私の力、今の通り無事に此の世に居られる事にしたのも私の力です、私は権利として秀子を自分の妻、自分の物と言い張る事は出来ますけれど、唯私の恩を感ずるのみで、私を愛すると云う情の起らぬ者を妻とするも不本意ゆえ、其のうちには愛の心も出るだろうと気永く親切を盡して居るうち、貴方が横合いから出て秀子の心を奪ったのです、全体此の様な事と知れば秀子を貴方の叔父上の家へ入り込ませる所ではなかったのです、唯当人が是非ともと云うに任せ、真逆に貴方に奪われるだろうとは気も附かず其の望みを許したのが私の間違いでした」余は殆ど茲へ故々権田を尋ねて来た主意さえ忘れ「自分の間違いなら間違いで、断念《あきら》めるが好いでは有りませんか、猶も未練を残し、非常な手段を取って、劫かすなどとは何たる仕方《しうち》です」
権田「イヤ其の様なお説教は今更貴方から受けるには及びません、茲で差し当りの問題は秀子が貴方の物か将《は》た私の物かと云うを極めるに在るのでしょう」余「夫は爾ですが――」権田「爾ならば余計の問題は入りません。唯一言で決します、貴方は
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