秀子の素性を知った上で、猶秀子を妻にする勇気が有りますか」余はグッと詰った。「サアそれは」権田「それはもこれはも入りません、貴方は明日にも叔父上の前へ出て秀子は全くの所、昔幽霊塔の持主お紺婆を殺した犯罪者として裁判所に引き出され、叔父上貴方が死刑を主張した輪田夏子ですが、私は家名よりも夏子を深く愛しますから、直ぐに彼の女と結婚しますと立派に言って、爾して立派に秀子を妻とする丈の勇気が有りますか」余は身を震わせて「妻とする事は最う断念せねば成りませんが、夫でも秀子を愛する事は誰にも劣りません、私は最う秀子の素性を知り、自分の理想が消えて了い、殆ど生きて居る甲斐もない程に思うのです、何うか此の後の秀子の身の落ち着きを安楽にして遣り度いと思い」
権田「イヤ妻にする事が出来ねば最う何にも仰有るな、秀子の身の上に口を出す権利はないのです、貴方に反して私は、明日にも秀子が承諾すれば、世間へ叫び立てて自分の妻にするのです、之が為に名誉を失おうと地位信用を落そうと其の様な事は構いません、秀子に対する私の愛は貴方の愛に百倍して居るのです」余は大声に「貴方の愛は野蛮人の愛と云う者です、名誉にも道理にも構わず、唯我意を達すれば好いと云う丈で、心ある女は決して其の様な愛を有難いとは思いません、何うして其の様な野蛮人に秀子を任せて置く事が出来ます者か」と云ううち次の室《ま》から何やら物音が聞こえたゆえ、驚いて振り向くと何時からか知らぬが、秀子が次の室と此の室との界《さかい》に立って、余と権田との争いの様を眺めて居る、余は今まで自分の熱心に心が暗み、少しも気が附かなんだけれど、先刻から茲に居たのに違いない。
第八十七回 三日月形
秀子が茲に来て居ようとはホンに思いも寄らなんだ、而も一々余の言葉を聞いて居たとは実に気の毒な次第である。
アア分った、余が此の室の入口へ来た時に、中で何だか話して居る様な声がしたのは秀子であった、外から叩く戸の音に、余が来たとは知らぬから時介が遽てて次の室へ隠したのだ、爾して次の室で聞いて居ると余だと分った故、室の境まで出て来たが、其の身に関する大変な談話だから、出もならず去りもならず、立ちすくんで聞いて居たのだ。
爾と知ったら余は最っと物柔かに云う所であった、最早妻にする事は出来ぬの、牢を出た身であるのと気色に障る様な言葉は吐かぬ所であった、斯様な言葉をのみ聞いて何れほどか辛く感じたであろう、定めし居|耐《たた》まらぬ想いをしたに違いない、いま物音をさせたのも余りの事に聞きかねて気絶しかけ、身の中心を失って蹌踉《よろめ》いた為ではあるまいか、何うも其の様な音であった。
斯う思って見ると、秀子は全く身を支えかね、今や仆《たお》れんとする様である、其の顔色の青い事其の態度の力なげに見ゆる事は本統に痛々しい、仆れもせずに立って居られるが不思議である。
秀子の眼は余の顔に注いで居るか権田時介の顔に注いで居るか、寧ろ二人の間の空間を見詰めて爾して目ばたきもせずに居る、アア早や半ば気絶して居るのだ、気が遠くなって、感じが身体から離れ掛けて居るのだ。
余が斯う見て取ると同時に其の身体は横の方へ傾いて、宛も立木の倒れる様に、床の上へ※[#「※」は「てへん+堂」、156−上9]《どう》と仆れた、余は驚いて馳せ寄ったが、余よりも権田の方が早く、手を拡げて余を遮り「可けません、可けません、貴方は今自分の口で明らかに秀子を捨てて了いました、秀子の身体に手を触れる権利はないのです、介抱は私が仕ますから、退いてお出でなさい」嫉妬の所為だか将た発狂したのか権田は全く夢中の有様で、秀子を抱き起して一方の長椅子の上へ靠《もた》れさせた。
見れば秀子は左の前額《ひたい》に少しばかり怪我をして血が浸《にじ》んで居る、仆れる拍子に何所かで打ったのであろう、余は手巾を取り出し、其の血を拭いて遣ろうとするに、之をも権田が引っ奪《たく》って自分で拭いて遣った、全く此の男の恋は野蛮人の恋であると、余は此の様に思いながら熟々と秀子の顔を見たが、真に断腸の想いとは此の事であろう、其の美しい事は今更云う迄もないが、美しさの外に、汚れに染まぬ清い高貴な所が有る、世に美人は幾等も有ろうが斯くまで清浄に見ゆる高貴な相は又と有るまい、顔を何の様に美しくするとも将た醜くするとも、此の何とのう高貴に感ぜられる所だけは取り除ける事も出来ず、附け添える事も出来ぬ、本統に心の底の清い泉から自然に湧いて溢れ出る無形の真清水とも云う可きである。
或る人の説に相《そう》は心から出る者で、艱難が積れば自ら艱難の相が現れ悪事が心に満つれば、顔の醜美に拘わらず自ら悪相と為り、又善事にのみ心を委ね、一切の私慾を離れて唯良心の満足をのみ求めて居る人は、自ずから顔に高貴の相が出来、俳優《やくし
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