子の前に立ち留り、愛らしい夏子の顔形と美しい秀子の顔形とを見較べた、是さえなくば此の様な辛い思いもせぬだろうにと、男にも有るまじき愚痴の念が湧いて来た、余「先生、先生、貴方が秀子と夏子と同人だという事を証拠立てる品物は、唯此の二個の顔形と、裏に書き附けてある貼紙とだけですか」先生は怪しむ様子で「ハイ勿論是だけです、是だけとはいう者の、之が幾十幾百の他の証拠より有力です」余は少しの間だけれど真に発狂して居たかも知れぬ、「是さえなければ秀子の素性を証明する事は六かしいのですネ」先生「爾ですとも是さえ無くば、少くとも秀子と夏子と同人だと云う事を証明するは、六かしいのみならず殆ど出来ぬ事でしょう」余は此の語を聞くよりも直ちに二個の顔形を手に取り上げ裏の貼紙を引き剥《めく》りて、爾して其の顔形を力に任せて床の上に叩き附けた。
 先生はびっくりして、余の手を遮り「何をなさる、何を成さる」と叫んだけれど後の祭りだ、顔形は極|脆《もろ》い蝋の細工ゆえ、早や床の上で粉微塵に砕けて了った、余は猶も飽き足らず先生の手を振り払って顔形の屑《かけら》を粉々に踏み砕いた、先生は呆気に取られ、呆然と見て居たが、又忽ち余を捕え「貴方は余りな事を為さる。其の顔形をなくして置いて、爾して私を其の筋へでも訴える気で」余「イエ、爾では有りません、先刻の三千ポンドで此の秘密を買ったのですから、私の自由に秘密を消滅させて了うのです。此の顔形は私の買い受け品です」先生は余の顔と砕けた顔形、否寧ろ蝋の粉とを見較べた末、聊か安心する所が有った様子で、「イヤまさかに貴方が、私を其の筋へ訴えもなさるまい、顔形を砕かれたのは残念ですが、成るほど三千ポンドの代りと思えば致し方が有りません、断念《あきら》めましょう、貴方も最う長居する用事は有りますまい、サア御勝手にお帰り成さい」云いつつ此の室の鉄の戸を開き余に指し示した。余「勿論長居する事は有りません、帰ります」後をも見ずに立ち去ろうとすると先生は最後の一言を吐いた。「念の為申して置きます、若し是で最う秀子の素性を証明する物がないなどと安心して私をイヤ私の職業を其の筋へ訴えなど成さると間違いますよ、此の顔形は此の頃権田時介氏の注文に由り、別に一組同じ物を作りましたから」

第八十五回 帽子を眉深に

 権田時介に頼まれて同じ顔形を作ったと云う先生の最後の一語は、嘘か実か、或いは余をおびやかして其の筋へ訴えるのを妨げん計略の様にもあれど、又思えば権田が先に小腋に挾んで去った品が、如何にも此の顔形の箱と同じ物の様にも見えた。
 併し余は深く考える心はない、唯「其の様な事は何うでも宜しい」と言い捨てて此の家を立ち出でた、余ほど時間の経った者と見え、早や夜|深《ふ》けて、町の往来も絶えて居る。
 夜中は何うする事も出来ぬ故、宿を尋ねて一夜を明かし、翌日直ぐに英国へ帰って来たが倫敦へ着いたのは、夜の九時頃である、途々の船の中、汽車の中、唯心を動かすは松谷秀子の事ばかりで全体此の後を何う処分して好い事か更に取り留めた思案は出ぬ、秀子が人殺しと脱獄の罪を犯した恐ろしい女で有る事も確かで、復讐の為幽霊塔へ入り込んで既に余の叔父を毒害せんと試みた事も確かである、是だけの所から云えば探偵森主水に次第を告げ秀子を捕縛させる一方である、併し又他の方面から考えれば秀子と余との間は夫婦約束の成り立って居る事も事実、秀子が愈々捕縛せらるれば余と叔父との丸部一家に拭う可からざる不名誉を来たすのも事実である。
 縦し不名誉にもせよ罪人を保護する訳には行かぬ、まして叔父の命を狙い、恐ろしい毒草を隠して居る罪人を、若し保護するに於いては全く人間の道を逆行する者である、と斯う迄は幾度も思い定めるけれど余の心中には猶一点の未練が有る、自分で掻き消すにも掻き消されぬ、勿論斯う成った以上は秀子を余が妻にする訳には行かぬ、けれど何だか可哀相でも有る、茲の思案が決せぬ間は家に帰って叔父に逢う訳にも行かぬ、秀子に逢う訳には猶更行かぬ、余は倫敦へ着いた者の其の後は何うして宜いか暫しがほど躊躇したが、漸くに思い定めたのは、兎に角に権田時介に逢って見ようとの一念である。
 彼|抑《そもそ》も何が為に余に先んじてポール・レペル先生を尋ねたか、果たして顔形を得る為とすれば何が為に其の顔形を要し、何が為に其の復写を作らせたのであるか、或いは彼、秀子を余に取られた悔しさに、其の顔形を以て秀子をおびやかす積りかも知れぬ、爾だ、何うせ爾とより外は思われぬ、若し其の様な心とすれば、彼と余との間に於いて秀子の問題を決着させねば成らぬ、孰れにしても逢って話せば分る事だ。
 愈々権田時介の住居の前に着いたのは夜の十時頃である、雨も蕭々《しょぼしょぼ》と降って居て、町の様も静かであるのに、唯不思議なは、何者だか権
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