われて居る、余は恋と云う妄念に目が眩み、是ほど明白な事実を見る事が出来なんだであろうか、余りの事に余は絶望とも何とも形容の出来ぬ恨みが胸に満ち、我が身を掻きむしりたい思いがする、ポール・レペル先生が何事をか頻りに説明して居る様であるけれど少しも耳に入らずして全く聞き損じて了った。
第八十一回 古新聞
余は全く先生の言葉を聞き損じたから、尚一度繰り返して呉れと請うた、何でも先生は第一号の顔形が全く輪田夏子だと云う事を充分に説明したらしい。
先生は返事もせずに室の隅に行き、古新聞の様なものを持ち出して来て無言のまま余の前に差し附けた、余も無言の儘で之を見たが、案の如く数年前の倫敦の新聞紙で、輪田夏子が裁判に附せられた時の記事が有る、記事の中に肖像が有って「老婆殺し輪田夏子」の最新の写真と書き入れて有る、能く見ると其の顔は殆ど幼な顔とも云う可きほど若いけれど第一号の顔形と同人と云う事は争われぬ。
余は殆どグーの音も出ぬ、只呆れて、我知らず椅子を離れて立ち上った、最早少しの疑いを挾む所はない、秀子は全く夏子の化けた者である、心の底には猶承知し兼ねる所が有る様な気もするけれど、是だけの証拠が有っては到底承知せぬ訳に行かぬ、承知の仕にくいのは余の愚痴、余の未練と云う者だ、エエ男たる者が斯うも未練では仕方がない、と余は奮然として云い直し「己れ人殺しの悪女め、能くも淑女に化け替って今まで余と叔父とを誑《たぶら》かした、是からは其の手は食わぬぞ」と口の内で罵った。
先生は嘲笑う様な調子で「何うです、最う迷いが醒めましたか」余「ハイ全く醒めました、少しの疑いも存《のこ》りません」先生「では秀子のイヤ夏子が此の家へ来てから、秀子と云う新しい生命を得て立ち去った迄の次第を一通り聞かせて上げますから、先ず落ち着いてお聞きなさい」とて再び余を、取り鎮める様にして椅子に凭《よ》らせ扨明細に説き出した。
「余計な事は省きまして千八百九十六年の七月の初めでした、医師大場連斎の手紙を持って英国の弁護士権田時介が私の許へ参りました、私は兼ねて権田氏の名だけは新聞の上で知り、且殺人女輪田夏子を熱心に弁護した人だと云う事も覚えて居ました。来訪の用事は、或る美人の顔を作り直して貰い度いが、全く同人と見えぬ様に作り直す事が出来るか、其の価は幾等であるか爾して其の秘密は何時までも無難に保たれるかと云う問合せの為でした。
「勿論総ての点を私は満足に答え、今まで私の手を経た人は再び見破られた例《ためし》がないと云いました。イイエ是は決して手前味噌では有りません、私が此の手術を発明して以来、牢を脱けたり、法律を逃れたりした人達が、私から新たな生命を受けたのは殆ど数え切れぬほどで其の顔形は既に今見た穴倉の両側の押入れに満ちて居る程ですが、中には英人も仏人も露人米人、濠洲人に至るまで殆ど全世界の人が有ります、けれど孰れも今は全くの別人と為り済まして無事に世を送って居ます、甚しいのは死刑の宣告を受け、上告中に脱獄して、爾して私の救いを受け、一年と経ぬうちに、然る可き履歴書を作って、直ぐに其の同じ牢屋の監獄医に採用せられた人も有るのです」
是、暗に大場連斎を指す者に違いない、扨は彼も一たび死刑の宣告まで受けた身の上であるのか、是で見ると此のポール・レペル先生自身も自分に新生命を与えた一人かも知れぬ、此の様な発明は最初に人の身体へ試験する事は出来ず必ず自分の身に実験して、爾して此の通り法律の網を潜る事が出来るぞと罪人社会へ手本を示した者であろう、斯う思うと先生の称号を加えるが何となく忌わしい心地もする。
先生「是程手広く人を救うて能くも此の職業の秘密が世間へ洩れずに居る事を怪しむでしょうが、夫は最う充分に大事を取って有るのです。私が先ず腹蔵なく依頼者の秘密を聞いた上でなければ需《もとめ》に応ぜぬは是が為です、依頼者は既に私は自分の悪事を聞き取られた上に前身の顔形と後身の顔形とを取られて居ますゆえ、全で私に咽喉首を握られて居る様な者で決して私の事を口外し得ないのです、口外すれば自分の生命がないのです、夫だから私の職業の秘密は其の人の生命と同じほど大切に守られて来たのです、イヤ是は話が横道へ反《そ》れました、是から権田時介の来て後の次第を申しましょう」
第八十二回 美少年
先生の言葉は次の如く引き続いた、「扨私が何の様にでも女の顔を作り直して遣ると答えた者ですから、権田時介は大いに喜び、それでは近々連れて来るから宜しく頼むとて立ち去りました、是より二週間も経て後ですが、英国の新聞に、殺人女輪田夏子が牢死したという事が出ました、私は之を見て、自然に権田時介の事を思い出し、様々に考えて様々の想像を附けましたが、それから二週間ほどすると、権田時介が一人の少年を連れて参りました。
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