「初めは美人と云う話で有ったのに、美少年であるのかと私は聊か怪しみましたが、能く見ると、顔の美しさ丈でも明白です、男に化けた女です、牢の中に居た為に頭の毛を短く刈られ、あんまり見っともない者だから、男にしたのかと私は斯う思いましたが、実はそれより猶深い理由が有ったのです、其の時権田は私へ向い、「是なる少年が、兼ねてお願い申して置いた松谷秀子嬢です」といいました。私は何気無く聞き取りましたが愈々手術に取り掛かる約定を極める時と為って権田に向い、「腹蔵なく依頼者の身の上を聞いた上でなくては」と主張し「第一権田さん、依頼者の松谷秀子という姓名では了ません。輪田夏子と云う本名でなくては」と皮肉に急所を突いて遣りました、是には権田も驚きましたよ。
「到底私を欺く事は出来ぬと見て権田は打ち明けました、実は輪田夏子では有るけれど何うか此の秘密を守って呉れといいますから、勿論だと答え、夫から権田は立ち去って夏子だけが私の許へ残りました、其の後で夏子から詳しく事情を聞きましたが、兼ねて夏子は脱獄の考えが有って、権田時介に其の旨を打ち明け、時介から充分其の目的の達する様にして遣るとの約束を得て居ましたけれど好機会を得ぬ為に遷延《せんえん》して居たのです、所が監獄の医を勤めて居る彼の大場連斎が権田の意に加担し、好い工夫が有ると云い兼ねて自分の手下とする一人の老看護婦を連れて来ました、爾して謀事《はかりごと》の委細を夏子に伝えた者ですから、夏子は其の差し図に従い病気を言い立て診察願いを出しました、診察は即ち大場連斎がするのですから、成るほど是は容易ならぬ病症《びょうき》で、外面には爾までにも見えぬけれど心臓に余ほどの危険な所があるなどといい、一も二もなく監獄の病院へ入れました。
「つまり夏子を死人にして監獄病院から担ぎ出すという計略で、夏子へ極めて危険な薬剤を与えました、其の薬剤には印度に産するグラニルという草から製した麻薬ですが極めて人身へ異様な影響を及ぼすのです、或る分量を服すれば即死しますが、又分量を変ずれば死人同様の姿と為り、脈も呼吸も停《とま》って了い、爾して四十時間乃至五十時間の後に、酒の酔いの醒める様に蘇生します、蘇生すると蘇生せぬとの分量の差という者は極めて僅かの者で、若し之を服用する人の身体に、医師の知らぬ弱い所でも有ったなら、蘇生の分量でも蘇生せずに本統の死人と成るのです、此の薬は私が連斎に教えたのですが、彼は其ののち幾度も実用して分量の加減などは私よりも上手に成ったと見えますよ。
「夏子は中々勇気の有る女と見え、その危険な薬を、怯《ひる》みもせずに呑んだ相ですが、無論死人同様の有様に成ったと云います、折から七月の炎天の際故、一時も早く葬らねば死骸が腐敗すると云う口実を以て、権田時介が外面から運動し、少なからぬ賄賂《わいろ》を使い、其の力で到頭病院から死骸を引き取り、外の所へ葬ると云う許可を得たのです、爾して死骸を連れ出して、直ちに幽霊塔の庭へ葬った様に見せ掛けたが、実は薬の分量が宜しきを得た者か、予想の通りに蘇生して私の許へ来る事になったのです。
「サア斯様な訳ですから、夏子其のままの姿では一歩も外へ出る訳に行かず、尤も病院を出た時には髪の毛などもかなりに長く延びて居た相ですけれど、私の許へ連れて来るのに何うしても男姿として人目を眩《くら》ます外はないとて頭髪を短く刈ったのだと云いました、私の許に居る中に髪の毛は長く延び、其の第一号の顔型の箱へ、剪《き》って入れて有る通りに成りました」

第八十三回 一生の燈明

 先生は猶語り続けた。「延びた髪の毛も前に申した通り、薬の力で色が変わり、其のうちに顔の総体も私の手術で全く別人の様になりました。尤も其の間に権田時介は二度ほど秀子の許を尋ねて来ました、毎も私が立ち会った上で面会させました、権田の用事は一つは私の手術を進むを見届けるのと秀子の其の後の身の振り方を相談するとに在ったのです。
「勿論私の手術には彼一方ならず驚き、秀子の顔を見て全く見違える様に成ったと云いました、それから相談の結果で、秀子は兎に角も米国へ行き、同国で多少の地位とか履歴とかを作った上で此の国へ帰ると云う手筈に定まりました、夫から権田は其の次に来た時に、米国の弁護士や政治家などに宛てて幾通の紹介状を作って秀子に渡し、恐らく今まで渡米した英国の婦人で斯くまで充分の紹介状を持って行った者は有るまいと云い、猶秀子に向って全くの一人旅とは違い、事に慣れた伽《とぎ》が一人附いて行くから心細い事はないなどと励ます様に云いました、其の伽とは監獄の病院で大場連斎の手下に成って秀子の脱獄を助けた老看護婦で、本名は知りませんが虎井夫人と偽名する様な打ち合わせでした」
 扨は彼の虎井夫人は其の時から秀子の附添いと為ったのか、是で夫人
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