等美しくとも心の醜さは分って居る、其の醜さを隠して、余を欺き余の叔父をまで誑《たぶら》かして居るかと思えば、実に譬え様のない横着な仕打ち天性人を欺くに妙を得た者に違いない、真に秀子が夏子の化けたのに相違ないであろうか。
二個の顔付きは全く違って居るとはいえ、能く見れば同じ事だ、先生の言葉に引き合わせて、見較ぶれば悲しい哉、争うに争われぬ、余は顔形を見詰めたまま目には涙、胸には得もいえぬ絶望の念が込み上げて来たが能く思うと、未だ一点の望みはある、なるほど第二号の顔形が第一号の変形には相違あるまい、けれど其の第一号が全く輪田お夏という証拠は少しもない、第二号も秀子なら、第一号も本来の秀子で、決して輪田夏子ではないかも知れぬ。
余は迫き立てる様に先生を呼び「ですが先生、第一号が輪田夏子だという証拠は何所に在ります。唯貴方の許へ其の様に名乗って来たというに過ぎぬのでしょう、偶然に名乗った姓名が殺人女と暗号したか、或いは自分の本姓本名を秘する為に殊更に世に知られた殺人女の名を用いたのか其の点は貴方に分りますまい」
第八十回 千貫の重み
第二号の顔形と第一号の顔形とは如何にも先生の謂う通り同人である、是だけは最早言い争う余地がない、けれど其の第一号が果たして殺人女輪田夏子だと云う事は何の証拠もない。
まさかに松谷秀子が其の殺人女だとは受け取れぬ、何の様な証拠が有るにもせよ、争われるだけは争い、疑われるだけは疑って見ねば成らぬ。
とは云え、今までの事を能く考え合わせて見ると先生の言葉には千貫の重みが有る、余が言葉は殆ど何の根拠とする所もない。
余は幽霊塔に入って後、幾度も塔の村の人々から輪田夏子の容貌などを聞いた事が有る、丸い顔で眉が長くて顎に笑靨が有ったなどと、全く第一号の顔形と符合して居る、しかのみならず夏子はお紺婆を殺したとき、左の手の肉を骨に達するまで噛み取られたと云う事だが、夫ほどの傷なら今以て残って居ねばならず、秀子が全く夏子なら秀子の手に其の傷が有るはずだ、実際秀子の手に其の様な傷が有るだろうか、待てよ、待てよ、秀子の左の手は毎も長い異様な手袋に隠れて居る、此の手袋の下に秘密が有るとはお浦が幾度も疑った所で、或る時は其の手袋を奪い取り、愈々秘密を見届けた様に叫んだ事も有る。
其の秘密を見られたが為に秀子がどれほど立腹したか、お浦を殺すとまで劫《おびや》かした事は余が確かに聞いた所だ、其の時秀子は余の許へ来てさえも手巾《はんけち》を以て巧みに左の手を隠して居た、左の手に恐ろしい証拠の傷が有るにあらずば、何が為に斯くまでも左の手を隠すだろう、是だけで余が唯一点の望みも何うやら消えて了う様だ。
高輪田長三が初めて来た時に、虎井夫人が非常に恐れの色を現わし、遽てて秀子を逃がした事も有る、是も輪田夏子と云う本性を長三に見現されるかも知れぬと気遣うた為では有るまいか、秀子が屡々夏子の墓へ参詣するも、夏子の死んだ事を何所までも誠しやかに思わせる為では有るまいか、或いは又何か心に思う所が有って、我と自ら我が墓に誓うのでは有るまいか、長三が此のたび余の叔父に手紙を遣り、秀子の素性をあばき立て叔父が痛く驚いたと云う、秀子が争い得ずして白状したと云うも、実は輪田夏子だと云う素性の事では有るまいか、是等は唯推量に止まるとするも外に余が直々《じきじき》に見た事柄も多少は有る。
松谷秀子が幽霊塔の時計の巻き方をまで知って居たのは何の為だ、輪田夏子ならば充分知って居る筈では有るが、夏子でなくば知って居るいわれがない、其のほか塔の秘密に属する事を誰よりも多く知って居るなどは幼い時から塔の持主お紺婆に養女として育てられた輪田夏子に悉く当てはまる、更に近頃に至っては養蟲園の一室に秀子の着物と、監獄で着る女の着物と一所に在ったなども一方ならぬ参考である、秀子が其の実夏子だとすれば少しも怪しむ可き点はない、夏子であればこそ屡々穴川甚蔵に強請《ゆす》られもするのだ、甚蔵の姉(だか妹だか)に当る虎井夫人を憎みながらも猶自分の傍より追い退ける事が出来ぬのだ。
唯穴川甚蔵が余を此の先生の許へ差し向けた一条だけが聊か合点の行かぬ様にも思われるが、イヤ是とても能く考えれば分って居る、甚蔵は甚く余に劫《おびや》かされ、最早逃れる路は唯余に秀子の素性を知らせ、愛想を盡かさせるに限ると見て取り、止むを得ず、余を茲へ寄越したのだ、まさかに殺人女と知った上で、余が猶も秀子を愛し、秀子の為に人を劫かし、又は法律の力を借りなどする事は有るまいと見て取ったのだ、秀子が若し夏子でなければ、成るほど甚蔵は余に巴里へ行けなど呉々《くれぐれ》も云う筈はない。
斯様に思い廻して見ると、今まで秀子を輪田夏子だと気の附かなんだが鈍《おぞ》ましい、秀子が夏子だと云う事は殆ど到る処に現
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