前後の事情が自然と秀子へ疑いの掛かる様になって居るから。
 愈々秀子に疑いを掛ける為とすればお浦自身の仕業でなくて誰の仕業だ、お浦は秀子を虎の穴へ閉じ込めて殺そうとまで計《たくら》んだ女ではないか、併しまさかに女の手で、幾等大胆にもせよ斯様な惨酷な仕業《しわざ》は出来ようとも思われぬ、夫ともまさかの時には女の方が男よりも思い切った事をするとは茲の事か知らん。
 孰れにしても、余や秀子の為には、否、丸部一家の為には、物事が益々暗く、暗くなる許りだ、此の様な次第では此の末何の様な事になるかも知れぬ。
 併し此の間に於いて、唯一つ余の合点の行ったのは死骸に首のない一条だ、首を附けて置いては、直ぐにお浦でない事が分る、幾等お浦の着物を被せても、幾等お浦の指環をはめさせても駄目な事だ、首を取ったのは全く着物を被せ指環をはめさせたのと同一の了見から出た事だ、成るほど、成るほど、是で森探偵の言葉も分る、彼は余が何故に死骸の首がないだろうと尋ねたとき、異様に驚き、旨い所へ目を掛けたと云う様に余を褒めたが、彼奴既にアノ時から、此の死骸がお浦でないと疑い、首のないのが即ちお浦でない証拠だと思って居たに違いない、道理で彼は初めて此の死骸を見た時に、是が浦子の死骸なら失望だと云い、自分の今までの推量が悉く間違って来るなどと呟いたのだ、流石は彼だ、シテ見ると彼は初めから此の事件に就いて余ほどの見込みを附け、確かに斯くと見抜いて居る所があるに違いない、何の様に見抜いて居るか聞き度い者だ、と云って聞かせて呉れる筈も有るまい、唯事件の成り行きを待つ外はないか知らん、夫も余り待ち遠しい話だよ。

第四十二回 一言の酬い

 疑わしい廉《かど》は数々あっても、此の死骸がお浦でないと云う事だけは最早確かだ、到底余の陳述を打ち消す事は出来ぬ、爾れば一時間と経ぬうちに陪審員は左の通り判決した。
「何者とも知れざる一婦人に対し、何者とも知れざる一人又は数人の行いたる殺人犯」
 殺した人も殺された人も分らぬは、検査官も残念であろうが仕方がない、直ちに此の死骸は共同墓地へ埋められる事となって此の家から持ち去られた、陪審員も解散した、探偵森主水は、愈々此の事件は倫敦へ帰って探らねば此の上の事を知る事は出来ぬと云って立ち去った、根西夫妻も此の様な恐ろしい土地には居られぬと云って鳥巣庵を引き上げ倫敦の邸へ帰った、高輪田長三は死骸がお浦で無かったのは先ず好かったとて一度は安心したが、夫に附けても本統のお浦は何所に居るだろうとて甚く心配の体ではある、尤も之は鳥巣庵に居る事が出来なくなったに就いて、当分(お浦の行方を探るに必要な間だけ)叔父との約束の通り此の家に逗留する事になった、余は何となく此の事が気に喰わぬ、秀子とて、無論其の通りであろう、併し広い家の事だから食事時の外は彼の顔を見ぬ様にするのは容易だ。
 兎に角も検屍官が「何者とも知れぬ者の死骸、何者とも知れぬ者の殺人犯」と判決したに付いて秀子に対する恐ろしい嫌疑は消えて了った、余は直ちに此の事を秀子に知らせて喜ばせたいと思い、早速其の室へ行こうとすると廊下で虎井夫人に逢った、夫人は遽しく余を引き留めて「お浦さんの死骸ではない様に貴方が言い立てたと聞きましたが、其の言い立てが通りましたか、判決は何うなりました」余「判決は何者とも知れぬ女となりました」夫人「オオ夫は有難い、松谷嬢もさぞ喜びましょう、嬢は先ほどから此の様な疑いを受けて悔しいと何んなに嘆いて居るでしょう」余「夫にしても貴女は病気の身で」夫人「イイエ熱が冷めましたから最う病気ではないのです、御覧の通りヨボヨボしては居ますが、松谷嬢が傷わしゅうて、知らぬ顔で居られませんゆえ、先刻から検屍の模様を立ち聞きしては嬢に知らせて遣って居ます」悪人でも流石は乳婆だ、嬢の事がそうまでも気になるかと思えば余は聊か不憫に思うた、余「では直ぐに判決の事を貴女の口から嬢に知らせてお遣りなさい」夫人「イイエ最う私は安心して力が盡きました、室へ帰って休まねば耐りませんから嬢へは何うぞ貴方から」と言い捨て、全く力の盡き果てた様でひょろひょろして自分の室の方へ退いた。
 余は其の足で直ぐに秀子の室へ行ったが、秀子は全く顔も青ざめ、一方ならず心配に沈んで居る、余の姿を見ても立ち上る気力もないから、余は其の背を撫でる様にして「秀子さんお歓《よろこ》び成さい、あの死骸はお浦のでなく加害者も被害者も何者か分らぬと判決になりました」秀子は打って代ったほど力を得て立ち上り「アア本統に有難いと思います、貴方には命を助けられ、今は又命より大切な事を助けられました」余「ナニ是しきの事を何も有難いなどと云うには足りませんよ」秀子「イエ貴方は何も御存じがないからそう仰有るのです、若し私に嫌疑でもかかれば、幾等自分が潔白でも
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