私は活きて居られぬと思いました、イエ本統ですよ、夫だから亡き後の事を頼む積りで権田時介を呼んで置きました」猶だ余よりも彼の権田弁護士を真逆の時の頼みにするかと思えば余は何となく不愉快だ、余「シテ権田は最う来ましたか」秀子「ハイ最う多分着く時分です」余「私は権田の身に成りたいと思います、若し権田の様に私を信任して下さらば権田の百倍も貴女の為に盡しますが」秀子「アレ信任などと、私は――何れほど、貴方を頼みにして居るか知れませんのに」余「頼みにするとて私へ愛と云う一言をすらお酬い下さらぬでは有りませんか」是が嫉妬と云う者か、余は斯様な事を言う積りでなかったのに、知らず知らず口が辷った、秀子「私の様な到底人の妻と為られぬ者の愛を得たとて何に成ります」余「妻になる成らぬは構いませぬ、唯貴女に愛せられて居るとさえ思えば――」秀子「ではそうお思いに成って宜《よ》いのです」と云ったが、是も言うて成らぬ事を云ったと思ったのか直ちに余の胸に前額《ひたい》を隠した。
 余は夢の様に恍惚として「秀子さん、其のお言葉を聞けば私は身を捨てても――イヤ貴女の身に人の妻と為られぬ何の様な事情が有ろうとも其の事情を払い退けます、如何なる困難を冒して成りとも」秀子は飛び離れて「了ません、丸部さん、私は大変な事を忘れて居ました、此の度の事は貴方のお蔭で助かりましたが、之よりも恐ろしい、到底《とて》も助かる路がなかろうと思う様な事柄に攻められて居るのです、妻にもなれず、永く此の世に居る事も出来ません」秀子の言葉は常に秘密の中に包まれ何事だか察することも出来ぬけれど今まで偽りの有った事がない、分らぬながらも皆誠だ、余「人として此の世に居る事の出来ぬ様な其んな事柄が有りますものか、今までは他人ゆえ、深く貴女に問う事も出来ませんでしたが、愛と云うお言葉を聞いた上は最う自分の事として其の困難に当ります、何の様な事ですか、何の様な事ですか」秀子は首を垂れて考え込み、顔も見せねば返事もせぬ、余「其の事柄が若し今直ぐに聞かして下さる事が出来ぬとならば、其の方は後として、其の前に貴女が人の妻に成られぬと云う其の訳を伺いましょう、私を愛しても私の妻に成れぬとは何故です、間を隔てる人でも有るのですか、有れば其の人は誰ですか」
「権田弁護士」と取り次の者の名乗る声が此の時聞こえた、引き続いて権田時介が此の室へ入って来た。

第四十三回 空な約束

 権田時介が来た為に、余は実に肝腎の話を妨げられた、若し彼の来るのが半時間も遅かったら、余は必ず秀子を説き伏せて末は夫婦と云う約束を結んだのに、惜しい事をした。
 時介が秀子に何を云うか、又秀子が時介に何を頼むか、余は茲に居て聞き取り度いと思ったけれどもまさかにそうも出来ぬ。既に秀子から故々《わざわざ》時介を呼びに遣ったと聞いて居る丈に、厭でも茲を立ち去らねばならぬ、恨み恨み彼の顔を眺むれば彼も余と秀子との間に何か親密な話でも有ったのかと嫉む様に余の顔を見る、余「イヤ権田さん」時介「イヤ丸部さん」と互いに挨拶の言葉だけは親しげに交えたけれど腹の底は火と火の衝突だ、互いに焼き合いだ。
 余は詮方なく此の室を退いて、我が心を鎮める為庭に出て徘徊したが心は到底鎮まらぬ、益々秀子の事が気に掛かる一方だ、何で秀子は権田の様な者を呼び寄せただろう、余に打ち明ければ何の様な事でもして遣るのに、何でも権田は秀子の身の秘密に、久しく関係して居るに違いない、今初めて怪しむ訳ではないが其の秘密は何であろう、秀子は到底此の世に活きて居られぬと迄に云った、シテ見ると余ほど切迫して居る事に違いない、唯一度余に打ち明けて呉れさえすれば余は骨身を粉にしても助けて遣るのに、権田には打ち明けて余には隠して居る、何の秘密だか少しも見当が附かぬ、見当が附かぬのに助けると云う訳には行かず、と云って助けずに、知らぬ顔で済ます訳にも猶更行かぬ、困った、実に困った、只問う丈では幾度問うたとて打ち明ける事ではなし、矢張り此の上は、秘密にも何にも構わずに、余の妻になると云う約束をさせ、爾して許婚の所天と云う資格を以て充分の親切を盡くし、追々に其の信任を得て、爾して打ち明けさせるより外はないか知らん、追々と云う様な気の永い話では此の切迫して居る今の場合に間に合わぬかも知れぬけれど、外には何の道もないから仕方がない。
 余は此の様に思って再び秀子の室へ行ったが、中は大層静かだ、猶だ権田と話して居るか知らん、斯うも静かな様では余ほど湿やかな話と見える、余が這入るのは勿論悪い、悪いけど此の様な大事の場合に権田の都合の好い様に許りはしては居られぬと、今思うと半ば殆ど狂気の様で、戸を推し開いて中へ這入った、オヤオヤ、オヤ、権田は居ぬ、秀子が一人で泣いて居る、余は安心もしたが拍子も抜け「権田弁護士は何うしまし
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