ち去り掛けて居ると、忽ち墓の背後から一人の男が現われた、是は確かに、昨夜秀子を看破する積りで当ての外れた高輪田長三で有る、秀子は驚いて起き上る、長三は帽子を脱いで礼をする、秀子は其のまま家の方へ立ち去ろうとする、長三は其の前へ立ち塞《ふさ》がる、何うも穏かならぬ様子だから余は飛び出して秀子を保護しようと思ったが、イヤ未だ急ぐ事ではない、長三は握手の積りか手を差し出す、秀子は否と云う風で両手を自分の背へ廻す、長三は怯まずに猶も進む、秀子は右の手を出して長三を突き退ける、長三は再び身を立て直して取っ掛り、依然として秀子が背後へ隠して居る左の手を取ろうとする、通例の女なら助けをも呼ぶ可き場合だろうが秀子は別に声も立てず、唯逃れようと悶く許りだ、最早見て居る場合でない、余は飛んで行って横手から長三を突き飛ばした、自分ながら我が力に驚いた、長三は倒れんとするほどに蹌踉《よろ》めいた。
余は彼が足を踏み直すを待ち、砕けるほどに彼の手を握った、秀子は真実に有り難そうに余の顔を見て「此の方は昨夜初めて逢った許りだのに、護衛のない女と見て実に無礼な事を成されます」長三も余に向い「イヤ別に無礼と云うでは有りませんが、少し合点の行かぬ事が有って見極め度いと思いまして」余「夫が無礼と云う者です、私の眼の前で、此の令嬢にお謝し成さい」長「ハイ貴方には謝しますが、此の令嬢には――篤と見届けて疑いの晴れた上で無ければ」余「謝さねば私が相手ですよ」と云って余は益々堅く彼の手を握り緊めた、彼は少し立腹の体で有ったが此の様な優さ男、素より余の力に敵し得る筈はない、夫でも勇気ある男なら真逆に黙して止む事は出来まいに、彼は存外臆病な男と見え「イヤ、貴方が爾までに仰有れば謝しますよ、謝しますよ」とて秀子に向い「実に無礼を致しました、何うか此の場限りにして下さる様、只管《ひたすら》に謝罪します」と云って極り悪げに行って了った。
余は秀子の手を取って、慰さめ慰さめ家の方へ帰ろうとした、若し是が余でなくて叔父だったら秀子は必ず昨夜の様に取り縋って泣き、顔を余の胸へ隠すだろう、真に泣き出しそうな顔をして居る、けれども真逆に余に縋り附く訳に行かぬ、唯手を引かれたまま首を垂れて居る、余は実に断腸の思いだ、憐みの心が胸一ぱいに湧き起った、殆ど我れ知らずに片手で秀子の背を撫で「秀子さん貴女は迚も独りでは此の様な敵に中《あた》る事は出来ません、私に保護させて下さいな、深い仔細は知りませんけれど此の後とてもお独りでは心細い事ばかりだろうと思われます、保護する丈の権利を私に与えてさえ下されば」と云い掛けると、秀子は恟《びっく》りして余より離れ「貴方も矢張り権田さんの様な事を仰有る、保護して下さるは有難くとも私は其の様な約束は出来ません」実に余は権田が秀子に言うた通りの事を言い度くなった、心に権田を笑った癖に唯一夜明けた丈で自分が其の権田に成り代わるとは成るほど秀子が承知の出来ぬ筈だと思い「イヤ夫では最う其の様な事は言いませんが、貴女は今私の出て来たのを有難いとお思いですか」秀子「夫は思いますとも、貴方が来て下さらねば私の生涯は此のまま盡きる所だったかも知れません」余「夫ならば貴女から何の約束を得ずとも此の後私は影身に成って守りましょう」秀子「でも私から何うぞとお願い申す事は出来ません、私は自分で密旨を果たさねば成らぬのですから、ハイ多分は果たし得ずに、何の様な目に逢って此の世を去るかも知れませぬけれど、固く心に誓って居るのだから致し方が有りません」と云う中にも眼は涙に閉じられて居る、何の密旨だか愈々分らぬ事には成ったが、或いは夏子の生存中に、夏子から何事をか頼まれたので有ろうか、夫で此の墓へ度々参るのでは有るまいか、孰れにしても余は最う助けずには居られない。
第二十七回 目に見えぬ危険
若し公平に考えたら、秀子の身には定めし怪しむ可き所が多かろう、密旨などと云うも分らず、夏子の墓へ参るも分らず、高輪田長三から異様に疑われて居る其の仔細も分らぬ、併し余は少しも疑わぬ、第一秀子の美しい顔が余の目には深く浸み込んで居る。決して人に疑われる様な暗い心を持った女でない、成るほど自分で云う通り何か密旨は帯びて居るだろうよ、併し人を害する様な質《たち》の悪い密旨では決してなかろう、第二には秀子が曾て「分る時には自然に分る」と云ったのを余は深く信じて居る、自然に分る時の来るを何も気短く疑って見るには及ばぬ。
斯う思うと唯可哀相だ、女の身で兎も角も密旨の為に働き「何の様な目に逢って此の世を去るかも知れぬ」とまで覚悟して居るとは傷々《いたいた》しいと云っても好い、助けられる者なら助けて遣り度い、と云って事情も知らず、自分の妻でも何でもないのに深く助ける訳にも行かぬ、今日の様な目に見えて危い事が有れ
前へ
次へ
全134ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング