薄気味の悪い室ではない、若し虚心平気で寝たならば随分眠られようと思うけれど、余は此の夜虚心平気でないと見え熟くは眠られぬ、殆ど夢と現《うつつ》との境で凡そ三十分も居たかと思うが、何やら余り大きくはないが物音がしたと思って目が覚めた、枕頭の蝋燭も早や消えて、何の音で有ったか更に当りが附かぬけれど、暗《やみ》の中に眸《ひとみ》を定めて見ると、影の様な者が壁に添うて徐々動いて居る様だ、ア、之が此の塔の幽霊か知らんと一時は聊か肝を冷した。
が余は幽霊などを信じ得ぬ教育を受けた男ゆえ、自分の目の所為とは思ったけれど念の為|燐燵《まっち》を手探りに捜し、火を摺って見た、能くは見えぬが何も居ぬらしい、唯燐燵の消え掛った時に壁の中程に在る画板《ぱねる》の間から人の手の様な者が出て居るかと思った、勿論薄ぐらい所では木の株が人の頭に見えたり、脱ぎ捨てた着物が死骸に見えたりする事が好く有る奴だから、朝に成って見直せば定めし詰まらぬ事だろうと思い直して其のまま再び寝て十分も立つか立たぬうち又物音が聞こえた、今度は確かに聞き取ったが、サラサラと壁に障って何物かが動いて居る音である。
茲で一寸と此の室の大体を云って置きたい、此の室は塔の半腹に在るので、昇り降りの人が此の室へ這入るに及ばぬ様に室の四方が四方とも廊下に成って居る、塔の中でなくば恐らく此の様な室はない、けれど四方のうち一方だけは何時の頃直した者か物置きの様にして此の室で使う可き雑な道具を置く事に成って居る、此の様な作りだから今の物音が壁の外か壁の内かは余に判断が付かぬ、余は又も燐燧を摺り、今度は新しい蝋燭へ点火《とぼ》したが、此の時更に聞こえた、イヤ聞こえる様な気のしたのは人の溜息とも云う可き、厭あな声である、実に厭だ、溜息と来ては此の様な場合に泣き声よりも気味悪く聞こえる、或いはお紺婆が化けて出て、自分の室を占領されたのを嘆息して居るので有ろうか、真逆。
余は蝋燭を手に持ち、寝台、読書室、談話室と三つに仕切ってある其の三つとも隈なく廻ったが、室の中には異状はない、壁の画板《ぱねる》をも叩いて見たが、古びては居れど之にも異状はない、シテ見れば室の外だ、廊下の中は何処で有ろう、室の外なら故々検めるには及ばぬと、其のまま再び寝床の許へ帰り、寝直そうと手燭を枕頭《まくらもと》の台の上へ置いたが、流石の余もゾッとする事がある、余の新しい白い枕の上へ、二三点血が落ちて居る、此の血は余が起きてから今まで僅か五分とも経たぬ間に落ちたのに違いない、猶能く見れば、褥《しとね》の上にも二三点、云わば雨滴が落ちたかと云う様な形になって居る、余は又も自分の目を疑ったが何う見直しても血の痕だ、何所から落ちた、天井からか、画板からか、押入れからか、天井は此の室と上の時計室との間から、人ならば匍匐《はっ》て這入れる様に成って居るから或いは誰か這入ったかも知れぬ、併し下から見た所では天井に血の浸《しみ》はない、多分は画板の間からでも、迸《ほとばし》ったので有ろう、と斯うは思っても真逆に血の落ちて居る寝床の上へ寝る訳にも行かぬ、或いは虎井夫人の連れて居る例の狐猿が壁の間か何処かで鼠でも捕ったのかと、此の様に思ったけれど狐猿が溜息を吐くなどは余り聞いた事がない。
第二十六回 愈々分らぬ
雨滴《あまだれ》の様に幾点か落ちて居る血を手巾《はんけち》で拭っては見たが、真逆に其の寝床へ再び寝るほどの勇気は出ぬ、斯うも臆病とは余り情けないと自分の身を叱って見たけれど、縦し無理に寝た所で迚も眠れはせぬだろうと思い直し、到頭其のまま起きて了った。
爾して廊下へ出、窓を開くと最う夜が明け掛けて居る、何者の血で有るか、真にお紺婆の幽霊が出たのか、篤《とく》と調べては見たいけれど、神経の静かならぬ此の様な時に調べたとて我と我が心に欺かれる計りだから少し早過ぎるけれど外へ出て、充分に運動して其の上の事よと思い、余り音のせぬ様に階下へ降り、庭に出て、夫から堀の辺まで散歩した、堀の岸には舟小屋が有って、未だ誰も乗った事のない、新しい小舟が有る、之を卸して進水式を遣らかすも妙だろうと、独りで曳《えい》やッと引き卸し、朝風の冷々するにも構わず楫《かい》を両手に取って堀の中を漕ぎ廻した、其のうち凡そ一時間の余も経ったであろうか、身体は汗肌と為って気も爽やかに、幽霊の事も忘れる程に成った、最う好かろうと舟を繋いで土堤へ上って見ると、目に附くは例の殺人女夏子の墓だ、墓の前に又詣で居る人が有る。
誰ぞと怪しむ迄もなく其の姿の優《しなや》かなのと着物の日影色とで分って居る、無論秀子だ、何の為に秀子が此の墓へ参るかは兼ねて不思議の一つだが、而も未だ誰も起きぬ中に参るとは成る可く此の参詣を人に知らさぬ為で有ろう、爾すれば余も知らぬ顔で居るが好いと其のまま立
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