ことさえも確かだから、無論良家の処女である、夫を疑ったお浦も無理だ、一時たりとも此の試験に落第するかの様に心配した余とても余り秀子に対して無礼すぎた。
 古い事を説く様では有るが、聞く所に由ると此の高輪田長三は幼い頃からお紺殺しの夏子と云う女と共にお紺婆に育てられた男で、お紺婆の心では夏子と夫婦にする積りで有ったのだ、所が何う云う訳か物心の附く頃から夏子が長三を嫌い、何うしても婚礼するとは云わぬ、婆は色々と夏子の機嫌を取り、遂に夏子を自分の相続人と定め、遺言状へ自分の財産一切を夏子の物にすると書き入れた相だ、夏子は大層有難がって婆には孝行を盡したけれど長三を嫌う事は依然として直らぬ、長三は婆が自分を相続人とせぬのを痛く立腹し、是から道楽を初めて果ては家を飛び出し倫敦へ行ったまま帰らぬ事に成った、婆は余ほど夏子を大事にして居た者と見え、長三が家出の後でも猶夏子を賺《すか》しつ欺しつし、遂に其の手段として、自分の所有金を悉く銀行から引き集め、それを夏子の目の前へ積み上げて、此の家の財産は現金だけでも是ほどある、和女が長三の妻に成れば、之は総て和女の物だし若し否と云えば遺言状を書き直して長三を相続人にすると斯う云った、随分下品な仕方では有るけれど下女から出世したお紺婆としては怪しむに足らぬのさ、夏子は自分が相続人でなくなるのを甚く辛がって、泣いたり詫びたりしたけれどそれでも長三の妻に為るとは云わぬから、お紺は詮方なく愈々遺言状を書き替えるに決心し、倫敦へ代言人を呼びに遣った、其の代言人が明日来ると云う今夜の十二時にお紺は何者にか殺されて了ったが、調べの結果様々の証拠が上り終にお夏の仕業と為った、お夏は固く自分でないと言い張ったけれど争われぬ証拠の為前に記した通り有罪の宣告を受け終身禁錮の苦刑中に牢の中で死んで了った、此の事件に長三も調べられたけれど彼は当夜倫敦に居た証拠も有り、又お紺を殺して少しも利益する所はなく、却って明日迄お紺を活せて置かねば成らぬ身ゆえ勿論疑いは直ぐに解けた、爾してお紺の財産は罪人夏子の物に成ったけれど、夏子死すれば夏子の子へ夏子に子なくば長三へ、と遺言状の中に但し書きが有った為、夏子が牢死した時に長三の物に成ったと云う事だ。
 是だけが余の知って居る長三の履歴である、けれど此の様な事は何うでも好い、話の本筋に立ち返ろう。
 高輪田と秀子とが全く見知らぬ人と分ったに付いてお浦の失望は見物で有ったけれど、流石はお浦だ、何うやら斯うやら胡魔化して秀子に向い「オヤ爾ですか、夫にしても高輪田さんは此の屋敷の前の持主で塔の事など能く知って居ますから必ず貴女とお話が合いましょう、是から何うかお互いに昔なじみも同様に、サア高輪田さん秀子さんと握手して御懇意をお願い成さい、ネエ秀子さん、ネエ叔父さん、爾して下さらねば私が余り極りが悪いでは有りませんか」と極めて外交的に場合を繕った、高輪田は声に応じて手を差し延べた、秀子も厭々ながらこの様に手を出したが、高輪田の手に障るや否や、宛も蛇蝎《まむし》にでも障る様に身震いし、其の静かな美しい顔に得も言えぬ擯斥《ひんせき》の色を浮かべて直ぐに手を引き、倒れる様に叔父の肩に縋り「阿父様、私は最う立って居る力もありません」とて顔を叔父の胸の辺へ隠した、確かに声を呑んで忍び泣きに泣いて居る、何で泣くやら分らぬが多分は今夜の様々の心配に神経が余り甚く動いたのであろう、叔父は傷《いた》わって其のまま連れて去ったが、高輪田は此のとき不意に恐れだか驚きだか、宛も天に叫ぶ様な音調で、「オオ、神よ」と一声叫んだ、見れば彼の眼は又もX光線の様に、秀子の彼の真珠を以て飾った左の手の手袋へ注いで居る。

第二十五回 之が幽霊か知らん

 秀子と長三との対面が、兎も角も秀子の勝利となって終ったは嬉しい、けれど余は何となく気遣わしい、猶何所にか禍の種が残って居はせぬか、再び何か不愉快な事が起りはせぬかと、此の様な気がしてならぬ、其の心持は宛も、少し風が吹罷《ふきやん》で更に此の後へ大きな暴風《あらし》が来はせぬか、此の凪《なぎ》が却って大暴《おおあれ》の前兆ではないかと気遣われる様な者だ。
 此の気遣いは当ったにも、当ったにも、実に当り過ぎるほど当った、読む人も後に到れば、成るほど当り様が余り甚すぎると驚くときが有るだろう、併し夫は余程後の事だ。
 此の夜は事もなく済み、客一同も「非常の盛会であった」の「充分歓を盡した」のと世辞を述べて二時頃から帰り始めた、余も頓て寝床に就く事になった。
 寝床と云うは、彼のお紺婆の殺された塔の四階だ、時計室の直ぐ下の室である、余自ら好みはせぬが秀子の勧めで此の室を余の室にし、造作なども及ぶだけは取り替えて何うやら斯うやら紳士の居室《いま》らしく拵らえてある、初めて見た時ほど陰気な
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