堪えません」秀子は極めて低い声で「イイエ、私は貴女の御笑談《ごじょうだん》としか思っては居ませんのです、気にも留めねば最う忘れて居りました」此方も仲々鷹揚な言い振りだが、真逆忘れるほど気に留めぬ訳でも有るまい、併し是は斯る場合の紋切形の口上だ、お浦「其の代り今日はお詫びの記しに貴女の昔友達を誘うて参りました、是は貴女からお礼を云うて戴かねば成りません、オホホホ」と追従か世辞の様に笑うけれど、実は全く勝誇った笑いなのだ、愈々化けの皮を引剥《ひんむ》いて恨みを晴らす時が来たと、嬉しさに腹の中から込み上げる笑いを世辞に紛らせて了うのだ、此の様な事は総て女の長所だが取り分けてお浦の長所だ、余は此の笑い声を聞いてゾッとした、最う万事休すだと絶望した、併し秀子は気も附かぬ様子で「エ、私の昔友達とは」と怪しんで問い返した、声に応じて高輪田は進んで出た、お浦は軽く引き合わせた「ハイ貴女が昔御存じの高輪田さんです、高輪田さん、此の令嬢は今は当家の養女です」声と同時に秀子と高輪田とは顔が合った、余は動悸の音が自分の耳へ聞こえる程だ、本統に必死の場合とは茲のことだ、余は全く自分の事の様に思い、眸を凝らして秀子の様子を見た、静かだ、実に静かだ、恐れとか驚きとか云う様には顔の一筋だも揺《うごき》はせぬ、泰然と落ち着いた令嬢は猶記憶して居るや否や、余は始めて秀子に逢った時若しや仮面ナも被って居るではなかろうかと此の様に疑ったが、勿論其の疑いは直ぐに解けて仕舞ったけれど今も秀子の顔を見て、其の余《あん》まり何ともなさすぎる静けさに、若しや仮面かとも同じ疑いを起し掛けた、併し勿論少しの間さ。

第二十四回 X光線の様に

 後で考えるに、人の活々《いきいき》した顔を、仮面ではあるまいかなどと疑うは余り馬鹿げて居る、勿論仮面ではない、血と肉と筋と皮とで天然に育った当り前の顔である、余とても必ずしも疑ったと云う程ではない、唯殆ど仮面かとも思われる程に美しいと斯う思った迄の事さ、決して若しや仮面ではなかろうかと探偵が罪人を疑うように疑った訳ではない、断じてない、茲の区別は読者に呑み込んで貰わねばならぬ。
 仮面ではないが此の時の秀子の顔は何となく人間以上に見えた、殆ど凄い程の処がある、と云うて別に当人が、強いて顔の様子を作って居る訳でもなく、少し高輪田を怪しむ様は見えるけれど其の外は唯平気に静かなのだ、其の平気な静かな所に一種の凄味が有るから妙だ、余は此の時高輪田の顔をも見た、彼は同様な心を以て秀子の顔を見て居るだろう。
 彼の顔は前にも云った通り、男としては珍しいほど滑らかで、余り波瀾の現われぬ質では有るがそれでも初めて秀子の顔を見た時には確かに彼の顔に一種の悪意が浮動した、何でも彼は兼ねてお浦から、此の秀子は古山お酉に違いないと云われて、全くお酉に逢う事とのみ思い詰め、己れ面の皮を引剥いて遣ろうと楽しんで遣って来たに違いない、爾なくば顔に斯う悪意の浮動する筈がない、所が彼は一目見て痛く驚いた、悪意は消えて寧ろ恐れと云う様な色になった、何でも人違いと覚ったが為らしい、併し彼仲々根強い気質と見え、怯《ひる》み掛けて又思い直した様子で、一層眼に力を込めて再び秀子の顔を見詰めた、此の時の彼の目は実に鋭い、非常な熱心が籠って居る、若し眼の光がX光線の様に物の内部まで入り込む事が出来る者なら、此の時の彼の眼光は確かに秀子の腹の中を透かして背中まで貫徹《ぬけとお》ったで有ろう、けれども彼は終に満足の様子を示さぬ。
 余も心配だが、余よりもお浦に至っては殆ど必死だ、高輪田よりも猶一層眼を輝かせる、と云う事は到底人間の目には出来ぬけれど、若し出来る者とすれば、必ず高輪田よりも猶強く輝かせる所で有ろう、余の叔父も何だか対面の様子が変だから少し怪しみ掛けたのか怪訝な顔をして居る、中で一番平気、一番何ともない様なのは秀子だ、秀子は最早高輪田が充分顔を見盡くしたかと思う頃、静かに口を開き「私は何も合点が行きませぬ、私の昔の友達と仰有った様に思いますが、幾等考えても分りません、多分私がお見忘れ申したのでしょう、失礼ですが何処でお目に掛りましたかネエ」とあどけなく問うた、高輪田は何と返事する言葉さえ知らぬ様子だ「左様です、私も、何うも、イヤ何とも、考えが附きません」秀子「夫に私は高輪田さんと仰有る御苗字さえ今聞くが初めての様に思いますが」
 余は全くホッと息した、秀子は此の恐ろしい試験、イヤ当人は恐ろしくも有るまいが、余の心には非常に恐ろしく感じた、此の大試験も苦もなく通り越したと云う者だ、お浦の疑う様な仲働きでない、古山お酉でない、姿を変えて人を欺く女詐偽師ではない、幽霊塔の前の持主たる高輪田長三さえ見た事のない全くの松谷秀子だ、米国で政治家の秘書を勤めて居た事も確か立派な書籍を著わした
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