らぬ訳に行かぬ、秀子を保護したい一心で、殆ど其の他の事は打ち忘れて秀子の前へ立ち上った、権田も秀子を追う様にして茲へ来た、硝燈《らんぷ》の光まで青く映ずる盆栽の蔭で三人顔と顔とを見合わせた。

第二十三回 少しの間

 顔見合わせた三人の中、一番驚かなかったのは秀子である。一旦は驚いたが直ぐに鎮まり、宛も余の保護を請う様に余の蔭へ立ち寄った、実に女にしては珍しいほど胆の据った落ち着いた気質で有る、男にしても珍しかろう。
 権田時介は殆ど譬え様の無いほど驚いた。暫くは無言で余の顔を見て居たが、頓て余と知るが否や、「ヤ、ヤ、丸部道九郎君」と云って途切れ「人もあろうに、丸部君が茲に居られたとは、エ、不注意過ぎました」と、非常に、余に立ち聴せられたのを悔む体だが、併し流石は男だ、愚痴も何にも云わずに庭の方へ立ち去った。
 余は何う考えても権田と秀子の関係が分らぬ、夫婦約束などのない事は無論で有る、思い思われる仲ですらないのだ、イヤ権田の方は一生懸命に思って居るけれど秀子の方では何とも思って居ない、夫だのに秀子が一身の命令権を権田に与えて有るのは何の訳だろう、権田の秀子に迫ったのは恐迫と云えば恐迫で有るけれど、破落漢《ならずもの》が貴人の秘密を手に入れて強談するなどとは調子が違う、殆ど兄妹の様な親密な言葉附きで互いに何も彼も知り合った仲の様だ、実に不思議だ、若し此の二人の間柄の委細が分れば秀子の身の上の秘密、所謂「密旨」「密命」など云える事の性質も分るだろう、けれど二人の間柄の委細は勿論知る可き道がない、余には想像さえも及ばぬ。
 秀子は余の蔭に寄り添うたを恥ずかしく思ったか、権田の立ち去ると共に身を退いて、舞踏室の方へ行こうとする、其の様子は余ほど打ち萎れて居る、余は其の前へ廻り「秀子さん、私は立ち聞きしたのでは有りません、私の居る所へ貴女と権田君とが来て、私は立ち去る機会を失ったのです」秀子は簡単に「ハイ貴方が立ち聞きの為に茲へ来たとは思いません」余「ですが秀子さん、貴女は今、男が無報酬で女を助ける事は出来まいかと此の様にお嘆き成さったが、他人は知らず此の丸部道九郎ばかりは全く兄と妹の様な清い心で、貴女を助け度いと思います、貴女の敵とか運の盡きとか云うのは何ですか、助ける事の出来る様に私へ打ち明けて下さらば」秀子「イイエ貴方では私を助ける事は出来ません、権田さんの外には私を助ける事の出来る人はないのです」余「でも権田は貴女の応じ得ぬ様な無理な報酬を迫るではありませんか、私ならば、貴女を妹と思って助けます、尤も何時までも妹と云う丈で満足する事は出来ぬかも知れませんけれど」秀子は打ち萎れた仲から異様に笑みて「オホホホ、妹と云う丈で満足の出来ぬ時が来るなら権田さんも同じ事です、生涯愛などを説かぬ男は此の世にないと断念《あきら》めました」斯う云って余を振り捨てた。
 けれど余は猶も後に随って行ったが、秀子は愈々舞踏室へ歩み入った、果せる哉だ、第一に秀子の前へ遣って来たのはお浦だ。大敵――だろうと余の鑑定する――高輪田長三も一緒である、余の叔父も附き添って居る、秀子は高輪田長三に逢うのを覚悟の上で茲へ来たのか、夫とも長三に逢いは仕まいと油断しての事だろうか、或いは又逢って見破られるなら夫までと絶望の余り度胸を据えての事だろうか、余は心配に堪えられぬ、若し秀子が実は古山お酉で、茲で高輪田に見破られる様なら、全く姿を変じて人を欺くと云う者で、女詐偽師も同様だから少しも憐れむには及ばぬとは云う様な者の、夫でも何だか気懸りに堪えられぬ、若しも高輪田長三の口から無礼な言葉でも出ようなら一語をも終らぬ中に彼を叩き殺して呉れようか知らんと、余は此の様にまで思って一歩も去らずに秀子の傍に附いて居る。
 叔父が先ず秀子に向って「実は是なるお浦が是非とも和女《そなた》に逢い、前の無礼を親しく詫びたいと云い、私に和女の居る所を捜して呉れと頼むから、イヤ断っても、日頃の気短い気性で仲々聴かぬから、此の通り連れ立って和女の居所を探して居たのだ」叔父が斯う云って居る中に秀子の目は夫とも知らずに一寸高輪田の眼に注いだ様だ、爾して何だか悸《ぎょっ》と驚いたかの様にも思われたけれど、是は多分余の心の迷いから此の様な気がしたので有ろう、爾かと思って見直して見るに秀子の顔は相変らず静かで、恐れも喜びも何も浮べては居ぬ、唯品格の有る態度で「左様ですか、けれど浦原嬢からお詫びなど受ける様な事は少しも有りませんが」お浦は茲ぞと云う風で進み出た。言葉の言い廻しも甚だ旨い、「秀子さん貴女にそう仰有られると私は恨まれるより猶辛く、ホンに消え入り度く思いますよ、朝倉男爵の手品会の席で、貴女を仲働きだと、途方もない事を申しまして今考えると私は貴女に何れほど恨まれても仕方がないと、イイエ実に後悔に
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