ば成らぬ。
 此の様に思って再び盆栽室へ這入り、植木などの最も沢山に茂って居る所へ腰を卸し、悠《ゆっ》たりと休んで居た、スルト余が右手に在る大窓から絹服の音が聞こえ、其の後に紳士の靴音が続いて忍びやかに這入って来た、之は確かに舞踏室から庭へ出て庭から茲へ廻って来たので有る、女は誰、男は誰、室の内は明るいけれど物に隔てられて余の所からは見えぬ、先からも余を見る事は出来ぬ筈だ、余は人の密話を偸み聴くは好まぬから密と立ち去り度く思ったけれど、既に遅い、男女は早や余と一間とは離れぬ所へ腰を卸し「本統に権田さん何うしたら好いでしょう、私は最う運のつきだと思いますよ」と云うのは確かに秀子だ、余は全身の血が頭へ突き上る様に覚えた、全く秀子は彼の弁護士の権田時介に身の振り方を相談する為に連れ立って茲へ来たのだ、権田、権田、彼が秀子の身に差し図する権利が有るとは先刻秀子が明らかに余に告げた所だ、権田の為に、秀子は誰とも舞踏の約束をせずに待って居たほどである、余は最早ぬすみ聴かぬ訳には行かぬ、縦しや聴くまいとしても自から聞こえるのだ。
「ナニ運のつきと云う事は有りません、今まで物事が極めて好く運び、先ず思ったより寧ろ旨く行って居るでは有りませんか」と聊か慰める様に云うは全く権田時介だ、余は久しく彼の声を聞かぬけれど充分に覚えて居る、彼は猶語を継いで「私は寧ろ運が貴女を助けて居るのだと思いますが」秀子「運が助けて呉れるならどうして此の様な辛いことに成りましょう」権田「左様さ貴女の身の上も随分不思議は不思議ですネエ」秀子「ハイ是ほど異《かわ》った身の上は二人と此の世に有りますまい、私は最う一切の力が盡きて仕舞いました」権田「夫だから私が助けて上げようと云うのです」秀子「ダッテ貴方は――」権田「イヤ何も「ダッテ」などと仰有ることは有りません、今まで一切、無報酬で助けて上げたのですから最う報酬を請求しても好い頃です」秀子「報酬は差し上げて有るでは有りませんか、金銭の報酬は決して受けぬと貴方が仰有るし、夫なら以来何事でも貴方のお差し図に従うと云って――」権田「アハハハ一身の命令権を私へ与えたのですか」秀子「ハイ夫が報酬でなくて何で有りましょう、私は何の様な場合でも貴方のお差し図を待つ積りで今夜なども――」権田「舞踏の相手を定めずにお待ち下さったと云うのですか、イヤ夫は有難いと謝せねば成りません、謝する事は謝しますが爾まで私の意を重んじて下さるのに、タッタ一つ肝腎の願いを聞き入れて下さらぬとは何故です、何も六かしい事ではなく、唯後に至って私の妻に成ると約束して下されば好いのです、其の約束をさえ得れば、貴女の身に火が降り掛って来ようとも必ず無難に助けて上げます。何の様な場合でも場合相応に手段を廻らせ、助かる道を開くのは私の得意です、云わずとも貴女は御存知の筈ですが、秀子さん、何で私の妻になる約束が出来ませんか」秀子は殆ど恨めしげに嘆息して「男と云う者は、何で愛だの妻だのと云う無理な事ばかり望むのでしょう、男と男と助け合う様に、又は女と女と助け合う様に、少しも愛などと云う約束なしに真の友達か兄妹の様に為って女を助ける事は出来ぬ者でしょうか」権田「夫は出来ぬとも限りませんが、貴女に向っては出来ぬ事です、貴女の様な美しい方に向い、木石でない以上は唯友達と云う丈で満足して居る事は誰とても出来ません、決して男の罪ではなく、男を酔わせる様な姿に生まれて居るが貴女の不運です」秀子は全く泣き声と為って「エ、此の様な顔に、此の様な顔に」と云い、後は声さえも続かぬが、何だか自ェの顔の美しいのを恨む様だ、権田「此の様な顔にとて、元から美人に生まれて居るから誰も恨む事は有りません、若し貴女は、私の言葉を聞かず、妻と云う約束をせずに、私を敵に取ったら何うなると思います、今でさえ御自分で運の盡きだと云う程の敵が有りますのに私から恨まれれば」秀子「ハイ貴方に恨まれたら此の世に居る事さえ出来ません、夫は貴方が能く御存じです」権田「それ御覧なさい。私を敵に取っては貴女の身も立ちますまい、夫だのに何故生涯を私の保護の下に置く事が出来ません、夫婦と為らねば決して長い生涯を助け合うと云う道はないのです」秀子「貴方は恐迫なさるのです、困って居る女を恐迫するとは紳士の成され方で有りません、貴方が紳士らしくない振舞を為さって爾して私に愛せよとは御無理です、紳士の心のない人を所天とする事は出来ません」
 権田「ハイ紳士か紳士でないか知らぬが、有らゆる手を盡していけぬ時は私も恐迫も用います、腕力も用います」
 争いは次第に荒々しく成って権田は終に秀子の手を捕えようとした様子だ、秀子は逃げる様に立って、丁度余の居る所へ馳せて来た、余は茲に潜んで居た事を知られ、秀子に紳士らしくないと思われるは辛いけれど最早立ち上
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