ば助けもするが、当人の様子から考えると目に見える危険より目に見えぬ危険の方が定めし多かろう。
余は此の様に思いつつ秀子を家の内へ送り入れた、頓て朝|餐《さん》も済み、又一回り運動して、爾して愈々昨夜(寧ろ今朝)出た幽霊の跡を検めて見る積りで塔の四階へ上って行ったが、余よりも先に秀子が居て、物思わしげに廊下を徘徊して居る、余は「何うかしましたか」と問い掛けたが秀子は返事をせず眼で以て差し図する様に、余を連れて余の室へ這入り、少し、言葉を更めて「貴方が此の室を居間に成すったのは私の言葉に従って下さったのではありましょうが――」余「全く爾です」秀子「貴方は此の外の事も私が申した通りに仕て居らっしゃるのですか」余「此の外の事とは」秀子「此の室で丸部家の咒語や図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、60−上10]などをお見出し成さったでしょう」余「ハイ見出しました」とて見出した時の様を掻摘《かいつまん》で話した、秀子「爾して其の咒語を暗誦なされましたか」余「イヤ暗誦はしませんが長くもない文句ですから大方は覚えて居ますよ、何でも明珠百斛、王錫嘉福、妖※[#「※」は「かみがしらの下に几」、読みは「こん」、60−上14]偸奪、夜水竜哭などと云って――」秀子「イヤ夫ほど覚えて居らっしゃれば好いですが其の意味は分りましたか」余「意味は到底分りませんよ、末の方の文句等は恐らく無意味だろうと思われます、彼の咒語を作った此の家の先祖が幾分か神経でも狂って居たのでは有りますまいか」秀子「そうお思い成さると間違います、何うか熱心にお考え下さい、私は毎日のように咒語と図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、60−上19]とを研究して居ますが、自分だけの力では少し届き兼ねることが有ります、貴方ならば博学ゆえ――」余「イヤ私は腕力こそ自慢ですが学問は少しも博くないのです、ですが何故に其の様な事をお急ぎ成さるのです」秀子「実は大変な事が出来ました、私は昨日の昼間も茲へ来て、塔の実際をアノ図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、60−上24]と咒語とに考え合せ、自分で合点の行った事だけを手帳へ書き、爾して此の廊下の外の壁にある秘密の穴へ隠して置きました、猶調べたい事が有って今上って来ました所、其の手帳が紛失して居るのです、若し悪人が其の手帳を見て咒語を解釈でもすれば大変です、是非とも悪人より先に貴方か私かが解釈せねば、夫は最う貴方に取っても阿父様に取っても、又私の身に取っても取阨ヤしの附かぬ事に成ります」余「其の手帳を盗んだのは悪人ですか」秀子「誰だか少しも分りませんが、何うせ人の手帳など盗むからは悪人でしょう、殊にアノ咒語を解釈して、爾して何か利益を計ろうと云う人に違い有りません」余「イヤ盗んだとて決して解釈は出来ますまい、貴女が毎日考えてさえ分らぬ程の、咒語ですもの」秀子「左様、咒語の本文と図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、60−下10]の原図とを見ねば幾等智恵の逞しい悪人でも悉く合点する事は出来ぬだろうとも思われます、けれど私の手帳を見れば、何れほど私が苦心して居るかが分り、これほど苦心するのだから必ず苦心する丈の値打ちはあると、是だけは見て取ります」
余は何うも秀子の云う事が充分には合点行かぬ、アノ咒語に解釈の出来るほどの確かな意味が籠めて居ようとも思わず、縦し解釈した所で此の家の為になる事もなかろう、従って他人に解釈せられた所で爾まで害にも成りはしまいと唯之ぐらいに思う丈だ、秀子「誰が盗んだか、実に分りませんよ、若し昨夜変った事でも有りはしませんでしたか――」余「イエ別に――」と言い掛けたが忽ち思い出して、「ナニ大変な事が有りました」とて幽霊の一部始終を語った、秀子は直ぐに合点して「其の幽霊が盗坊《どろぼう》です、溜息を吐いたり壁を撫でたりするのは貴方を威《おど》かして、此の室で寝ぬ様にさせ、爾して又|緩々《ゆるゆる》と来る積りです、血の落ちて居たのは必ず其の盗坊が何うかして怪我をしたのでしょう」
成るほど爾だ、少しも疑う所はない、余「イヤ貴女の眼力には感心です」秀子「イエ眼力ではなく、熱心です、熱心に心配して居る者ですから此の様な考えが附くのです、けれど丸部さん、貴方が此の室を退きさえすれば幽霊は必ず毎夜の様に此の塔へ上って来て私の手帳に引き合せて此の塔を研究します、貴方は此の室を空けては可ませんよ」余「併し恐れた振りをして誘き寄せ爾して捕えるのも一策では有りませんか」秀子「イイエ夫は非常に危険です。最う一夜でも其の幽霊を再び此の塔へ上らせたら何の様な事をせられるかも知れません」と云って少し考え、考え「貴方が、若しお厭なら、貴方は下
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