には秀子が自然と恩に感じ、自分を愛する事に成るだろうと、極めて気永く、極めて優しく、決心して居るに外ならぬ。実に秀子に対しては此の上の恩愛はないので全くの無条件で有る、然り秀子に対しては全くの無条件で、条件は唯余に対してのみ有るのだ、決して秀子の愛を横合いから偸むな、何うでも秀子に愛想を盡される様にせよと唯是だけが余への条件、余が之を守りさえせば秀子は何の約束をもするに及ばぬ、何の条件にも縛られる事はない、余は斯様に思い廻し「イイエ権田は貴女に対しては何の条件もないのです」と貴女に対してはの一語へ、聊か力を込めて云うた。
 無条件と聞いて秀子は初めて安心した様子である「エエ無条件ですか、其れは聊か不審ですが――イヤ私から何の約束をするには及ばぬと、全く爾う云うのですか」念を推すも尤もである、余「無論です」秀子は暫し考えて、何とやら言いにくげに、何とやら物静かに「ですが貴方は」と余に問うた、「……ですが貴方は」アア此の短い一語実は千万無量の意味が有る、秀子は権田が何の条件を望まぬと知って、確かに之は余から充分の報酬を約束した者と見て取った、余が其の通り報酬を約束するからには、条件は余から持ち出す者だろうと思った、其れだから「ですが貴方は」と問うのである、此の言葉を通例の言葉に引き延せば「権田さんが、私を妻にするなどの条件は出さぬとすれば、貴方は其の条件を出しませぬか」と云うに帰するのだ、此の身を妻にする気はないかと問うのも同じ事である。勿論昨日までも夫婦約束が出来て居た間であるもの斯う問うは尤もである、余は心底から嬉しさの波が全身を揺ぶる様に覚えたけれど、悲しや何の返事する事も出来ぬ、茲で嬉しい顔色を見せてすら権田への約束を破るのである、秀子の生涯を誤らせるのである、罪に汚れた見下げ果てた女を何うして妻などにせられる者かと全く愛想を盡した様な容子を見せよ、と云うのが権田からの註文である、真逆其の様な容子を見せる事は出来ぬけれども、何と返辞して宜い事やら、返辞の言葉がグッと余の咽に支えた、余は応とも否とも何とも云わず、顔を傍向《そむ》けて徒らに目を白黒した。
 斯様な時に女ほど早く人の心の向背《こうはい》を見て取り、女ほど深く不興を感ずる者はない、秀子は忽ち余の心変りを見て取った、勿論|態々《わざわざ》余の昨日からの不実らしい所業を許して呉れようとて、余に許しの言葉を掛
前へ 次へ
全267ページ中243ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング