のと同じ事をして」秀子「私は茲へ来るのに八時間掛かりました、昼の十二時から夜の八時過まで、ハイ来る路に分らぬ所や錠の錆附いて、開かぬ戸などが幾何《いくつ》も有りまして、寧そ途中で死んだ方が好ったのに」余「最う死ぬなどと其の様な事を云うにも及びません、私は唯貴女の足跡を附けて来たのですから爾ほどの苦労も無かったのですが、夫でも昼の十二時過ぎから今まで掛かりました、時計の秘密を解くことが出来ぬ為に」秀子「でも貴方には到頭、時計の秘密が分りましたネ、何うか早く此の秘密をお解き成さる様にと一頃は祈りましたけれど、今は貴方に此の秘密を悟られぬが好いと思い、私は来る時に、一切の機械を元の通りに直し、十二時が来て自然に戸の開く時までは何うにも仕様のない様に仕て置きましたのに」斯かる問答は岐路《えだみち》と知りつつも「エエ、何うかして、十二時でなくも出這入りする工夫が有るのですか、其れを知らぬ者だから随分甚い目に逢いました」秀子は益々常の心地に復《か》えるに連れ、愈々其の身の位地に当惑する如く「貴方、貴方、丸部さん」と最と鋭く叫んだ、余「ハイ何ですか」秀子「貴方は、日頃の慈悲がお有り成されば是限り何うか私の後を追わぬ様に仕て下さい、此のまま私を立ち去らせて下さい」
 素より承知の出来る請ではない、と云って秀子は余の承知と不承知に拘らず茲を去る決心であることは言葉の調子にも現われて居る。思えば其の決心も決して無理ではない、一旦夫婦約束まで出来て居た余に汚らわしい女と思われ愛の言葉さえ掛けられぬ様に成ったと知って、何うして茲に居られよう、殊に心の澄み渡るほど綺麗な秀子の気質としては、唯此の一事のみの為にも深く心を決す可き筈である。
 之を思うと余は愚痴の様だけれど益々権田時介との約束が恨めしい、茲で情けある言葉を掛け我が愛にも尊敬にも、少しも変る所はないから矢張り未来の妻として茲に留まって居て呉れと、何うして言わずに居られよう、約束は何うなろうと、エエ儘よとの一念に余は心も顛倒し、蹙《しが》み附く様に再び秀子の手を取った、然り再び秀子の手を取ったけれども、又思い出して、茲で若し約束を破り其が為に権田時介を怨ませて、彼の恨が余と秀子との上に降り下る事に成れば何うで有ろう、秀子は養母殺しの罪人として、養父殺し未遂の罪人として、牢破りまで企てた稀代の毒婦として再び如何の責苦に遭うも知れぬのみ
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