ます」秀子「最う既に容赦せぬ事に成って居るでは有りませんか。夜に紛れて此の庭へ忍び入り、爾して私に逢い度いなどと、ナニ構いません。私こそ最う断念めて居るのですから、彼が何の様な事をするか思う存分な目に逢いましょう、彼を恐れて、彼のユスリに従い、縦しや一言でも秘密を教えて遣れば私の密旨は大事の目的を失います、私が密旨の為に生きて居る事は貴女が知って居るでは有りませんか、密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と威《おど》されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです、金銭ででも済む事なら、イヤ今まで彼と貴女には云うが儘に金銭の報酬を与え、此の上遣るにも及びませぬ、けれど未だ御存じの通り自分の金子が銀行に在りますから惜しいとは思いません、金銭の外の頼みには、応ずるよりも死ぬる方を先にしますから、何うか彼に爾云って下さい、アノ様な者には逢うのも厭です」夫人「厭ですとて、最うソレ、返事の遅いのを待兼ねて彼所《あすこ》へ遣って来ました」
暗の中で何を指さして、彼処へ遣って来たなどと云うかと思い、余は四辺を見廻したが、三十間ほども離れた彼方に、一点星の様な光が有って、何だか此方へ寄って来る様子だ、分った、葉巻煙草を咬《くわ》えて居るのだ、光るのは煙草の火だ、人の屋敷へ忍び入って咬煙草などして居るとは余程横着な奴と見える、其のうちに安煙草の悪い臭気が余の居る所へまでも届いた。
第四十五回 拳骨と気転
安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一|埓《らつ》は何の様に終わるだろう、余は息を殺して居ながらも全身の筋肉が躍る様な想いである。秀子は再び虎井夫人に向い「厭ですよ。アノ様な人に逢うのは、ナニ初めから来て居ると知れば茲へ出て来る所ではなかったのです、私を欺して連れ出すとは余り甚いではありませんか」と叱る様に云うた、夫人「でも逢わせるのが貴女の為だと思いました、悪気でお連れ出し申したではなく」秀子「何うか貴女から彼にそう云って下さい、金子の外のユスリには決して応ずる事は出来ぬと」夫人「そう云えば決闘状を送るのも同じです、彼は
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