方の茂みの蔭から、密々《ひそひそ》と話しつつ来る二人の人の声が聞こえる、清いのが秀子の声で濁ったのが虎井夫人の声だ。
 二人は余の居る所から二三間先まで来て、立ち止った、余が居るを疑っての為ではなく、話が大変な所へ掛った為足を運ぶのを忘れたのだ、秀子の声「幾等大胆でも真逆に茲へは来ませんよ」虎井夫人の声「来ますとも、開放も同様の此の家ですもの、庭まで来たとて誰に見咎められる恐れもなく」秀子「恐れがないから来るが好いと貴女が云うて遣ったのでしょう」夫人「ナニ私が云うて遣りますものか」秀子「夫なら決して来る筈は有りません、自分の身に悪事が重なって居るのですもの」夫人「論より証拠実は最う来て居ますよ、先刻から向うの榎木の蔭で貴女の出て来るのを待って居ます」
 何者の事かは知らぬが、何うせ秀子の身に害を為す奴に違いないから、余は其の榎木の蔭へ馳せ附けて引捕えて遣ろうかと思ったが、爾も出来ぬ、承諾も得ずに横合いから手を出して、後で秀子に喜ばれるか恨まれるか夫も分らぬから先ア静かに事の成り行きを見て、秀子が甚く当惑するとか其の者が暴行でもする場合に現われようと、此の様に思い直して、暗の中で自分の身へ力を入れて見るのに、創は勿論既に癒えて、力も充分に回復したらしい、何うも其の様な気がする、是なら悪人の一人や二人を擲倒《なぐりたお》すは造作もない。
 秀子は、既に来て居るとの虎井夫人の言葉に余ほど驚いた様子で「エ、今夜来て居るのですか」と叫んだ。虎井夫人「私にも制する事が出来ぬから致し方が有りません、最う逃れぬ所と断念《あきら》めてお了いなさい」オヤオヤ此の夫人まで秀子の敵に成って、悪者に力を添えて居るのだな、尤も今までとても彼の蜘蛛屋とか云う所へ秀子の手帳を盗んで送って遣ったなどで分っては居るけれど余は事新しい様に感じた、暫くして秀子は「断念めよとて何う断念めるのです」夫人「断念めて向うの請求に応じますのサ、夫も六かしい事ではなく、唯貴女の知って居る秘密を一言彼の耳へ細語いて遣るだけですワ、貴女に取っては損もなく彼に取っては大層な利益です、爾して貴女の身も後々が安楽では有りませんか」秀子「可《い》けません、私の口から一言でも洩す事は出来ませんよ」夫人「其の様な事を仰有って、若し彼が立腹すれば、イヤ最う立腹はして居ますけれど、此の上に少しも容赦せぬ事に成れば貴女の身は何うなると思い
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