失は何の為、依然として黒暗々だ、強いて手掛りと名を附ければ名も附こうかと思われるは堀端の土堤の芝草が一ケ所滅茶滅茶に蹂みにじられてあると云う一事ばかりだ、是は高輪田が見出したので、当人の鑑定では若しお浦が此の土堤で何等かの暴行に遭ったのでは有るまいかと云うので余の叔父は聊か賛成しかけて居るけれど、森探偵は賛成せぬ、余の意見では何しろお浦の紛失は締め切った室の中で少しの間に消えて了ったのだから、尋常一様な詮索で説き明かすことは出来まい。森探偵はそう思って居る様子だが悲しい事には其の時同じ室に居たと云う為に、秀子に疑いを掛け、時々余の前でも秀子を詮議せぬと可けぬと云わぬ許りの口調を用うる、是は余の心を引く為で有ろう、余は併し真逆に秀子が人間一人を吹き消す事が出来ようとも思わぬから其のたびに秀子を弁護するのだ。
斯う云う様では迚も探偵が進みはせぬ、と云って外に探偵の仕ようもないから、一同余の室へ落ち合っては唯不思議だ不思議だと云う許りだ、其のうちに一週間の日は経ったが、余は医者の云うた通り寝床を離れて運動する事の出来る様になった、自分の気持では最う平生の通りで、何の様な労にも堪えるけれど医者が未だ甚く力を使っては可けぬと云うから先ず大事を取って戸外へは出ぬ、けれど階段の昇降などは平気で遣って居る。
斯うなると余は又余だけの仕事が有る、お浦の紛失などは何でも好い、怪我する前に仕掛けて置いた取り調べを片附けて了い度い、取り調べとは果して狐猿に引っ掻れた傷が古釘の創と似寄った禍いをするか否やの一件だ、余が之を取り調べる為に書籍室へ行き、書籍を尋ねる間に壁から剣の出た事は読む人が猶覚えて居るだろう、お浦の紛失と云う大問題の出来た今と為って此の様な小問題は殆ど取るに足らぬけど、大問題を取り調べる手掛りがないのだから、小問題と雖《いえど》も捨て置くには優るだろう、此の様に思って第一に余は彼の虎井夫人の室に行ったが、夫人は真に憐れむ可き有様に痩せ衰え今日明日も知れぬ境涯だ、医者も詰め切って居る、秀子も詰め切って居る、狐猿も詰め切って――イヤ狐猿は秀子の注意で、箪笥の許へ縛り附けられて再び人を引っ掻く事の出来ぬ有様と為って居る、医者の言葉では、若し今日に成って熱が下らねば虎井夫人は到底此の世の者ではない所で有ったが、今朝から熱が下ったから此の後は最う恢復に向う一方だと云う事だ、是には
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