口からアノ時の争いの一部始終を告げたと見える、自分の身に疑いの掛るのも知らないで何だって告げたのだろうと、余は残念に堪えぬけれど、又思うと畢竟《ひっきょう》秀子の心が清いから打ち明けたのだ、堅く自分の潔白を信じ、縦し疑われても危険はないと全く安心をして居るのだ、イヤ本来が、何の様な場合にも嘘などは吐かぬ極々正直な心根だよ。
 暫くすると今度は秀子が上って来た、余はアノ左の手を何うしたろうと思い、夫とはなく目を注ぐに、例の異様な手袋はお浦に取られてお浦と共に消えて了ったと見え、別に新しい手袋を被めて居るが、此の手袋も通例のとは違い、スッカリ腕まで包む様に出来て居る、けれど余は其の様な事には気も附かぬ振りで「秀子さん貴女は森探偵にお浦と争った事を話したと見えますネ」秀子「ハイ浦子さんの失踪に付き何か心当りの事はないかと問われましたが、アノ争いより外には何も知った事は有りませんから争いの事を告げました」余「貴女が御自分で密旨を帯びて居らっしゃる事も告げましたか」秀子「イイエ私の密旨は少しも浦子さんには関係はなく、爾して探偵などに告げ可き事柄で有りませんから告げません」余は聊か安心した、密旨などと云うと其の性質の如何には拘わらず、探偵などの疑いを引く者だ、夫を言われなんだは切《せめ》てもだ。
 此の所へ余の叔父も上って来た、続いて彼の鳥巣庵を借り、昔からお浦に一方ならず目を掛けて呉れる根西夫婦も遣って来た、此の度の事件に就いては、全《まる》で余の室が万事の中心点になって居る、頓て又余の嫌いな高輪田長三も遣って来た、根西夫妻が余を慰問して居る間に高輪田は叔父に向って「丸部さん、浦原浦子の失踪に就いて、差し出がましくは有りますが貴方にお願いが有りまして」叔父「貴方のお願いとなら、聞かぬうちに承諾します」高輪田「実は初めから申さねば成りません、私は外国の旅行先で初めて是なる根西夫人と浦原嬢とに逢いました時に、浦原嬢に心を寄せ、其ののち幾度も縁談を申し込みました、所が此の三日前になり嬢は漸く承諾の意を述べて呉れましたから、私はヤレ嬉しやと思いましたら、直ぐに失踪して了いました、私の悲しみをお察し下さい」と殆ど泣き相な顔附きで云って居る、是は実に耳新しい話である、お浦はアノ時も余に向って昔の約束に立ち返って呉れと嘆いたのに其の時既に高輪田の妻たる事を承諾して居たのか知らん、イヤナニ是
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