様な場合では有りません」猶もお浦は音沙汰なしだ、秀子「今の喧嘩は私が悪かったから、ヨウ浦子さん、茲へ来て下さいな、私一人では何うする事も出来ません、私の秘密などは最う何うなさろうと貴女の御勝手ですからサア、浦子さん、浦子さん、それほど私の傍へ寄るがお否ならサア今の鍵を上げますから、之を以て戸を開き、早く誰かを呼んで来て下さいな」と云って鍵を次の間へ投げて遣った、けれどお浦は返事をせぬ、秀子は非常に当惑の様子で「本統に仕ようがない事ネエ、此のままで丸部さんをお置き申せば益々血が出て何の様な事に成るも知れず、早く寝台へでもお移し申して充分の手当をせねば、と申して私の力では貴方を抱き上げて行く事も出来ませず」とて、途方に呉れて四辺を見廻した上「では私が行って誰かを呼んで来ましょう」と云い、其の辺の卓子に掛って居た獣の皮を取って巻き、それを枕として余の身体を穏やかな位置に直し、爾して自分で立って行ったが、其の巧者な塩梅は専門の看護婦にも劣らぬ程だ。
 余の居直った所から次の室の出口は一直線に見える、余は秀子が何うするかと見て居ると、今投げた鍵を拾い上げて、室の中を見廻し「先ア浦子さんも余り子供らしいでは有りませんか、此の様な場合に何所かへ隠れてお了い成さってサ」と云い捨て、其の鍵で戸を開けて出て行った、余は其の後で何もお浦に来て貰い度くはないけれど、或いは介抱に来るかと思い、絶えず次の室を見て居たけれど遂に遣って来ぬ、去ればとて秀子が開け放して行った出口から出で去る様子もない、扨は日頃の捻けた了見で又も何事をか企んで居るのかと思ううちに、秀子が二人の下部を連れて帰って来て「オヤ浦子さんは私の後でも未だ貴方のお傍へ来ませんか」と云いつつ余の傍へ跼《ひざま》ずいた、余は二人の下部に余の身に手を着けるより前に先ず次の間でお浦を探して引き出して来いと命じたが、下部は怪しみつつ捜した、隅から隅まで凡そ人の隠れるに足る物影は悉く捜した様子だけれど、お浦は居ぬ、全く蒸発でもして了ったかと云うほどにお浦其の者がなくなった、跡方もなく消えるとは此の事だろう、或いは秀子が、悔むとも帰らぬ目に逢わせると云ったのが此の事では有るまいか、何の様な手段かは知らぬがお浦の身体を揉み消したではなかろうか、併し其の様な事をする暇もなかった。

第三十二回 専門の刺客

 余は直ちに、二人の下部に舁《かつ》が
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