恐れを催した様子で「戸を開けて下さい、私を出して下さい」秀子「出して上げるのは誓いを立てた上ですよ、誓いますか誓いませぬか、今誓わねば、未来永久幾等貴女が後悔しても到底帰らぬ目に遭わせますよ」
未来永久、悔んでも帰らぬ目とは何の様な目に遭わせる積りだろう、茲で殺すぞと云う様な意味にも聞こえる、孰れにしても余の身体が自由でさえあればと、余は心の中で地団駄踏むほどに悶くけれど仕方がない、只紙一重を隔てられて何うしても其の紙を破る事の出来ぬ様な気がする、実に情けない、お浦は一声「其の鍵をお渡し成さい」と叫んだが直ちに秀子に飛び附いた様子だ、再び組み打ちの音が聞こえる、何方が勝つかは分らぬが双方とも必死と見える、頓て一方は、足を踏み辷らせた様子で「アッ」と云って床の上に倒れた、其の声は確かにお浦の方であった。
余は此のとき、悶きに悶いて、辛《や》っと半分起き上って、前へ踏み出そうとしたが足に少しも力が無く、直ちにドシンと倒れて了った、倒れる拍子に、初めて「ウーン」と云う呻きの声が口から洩れたが、其のまま気が遠くなって了った。
極めて少しの間ではあるが、自分と世間とが遠く遠く離れるかと思った、死んで魂魄《たましい》が身体から離れるは此の様な気持ではあるまいか、併し余の呻き声に、直ちに秀子が駈け附けたと見え「丸部さん丸部さん、オヤ先ア傍腹を刺されたと見え、此の血は、オオ恐ろしい何者が貴方を此の様な目に遭わせました」と驚く声が幽かに聞こえた。
少しは身体の痺れが薄らいだか、此の声で目を開く事も出来た、聊かながら声を出す事も出来た、余「オヽ秀子さんですか」と云う中にも秀子の左の手に何の様な秘密が有るか知らんと、見ぬ振りで見た、けれど秀子は手巾《はんけち》で巧みに左の手先を隠していて分らぬ、此の様な隙でも斯う用心する程ゆえ、お浦に見られて必死に成ったのも無理はない、次に余の口から発した言葉は「お浦は何うしました」と云う問いであった、秀子は気が附いた様に「オヽ私より浦子さんが当然介抱なさらねばならぬ方です」と云って、更に今喧嘩をした室に向い「浦子さん、浦子さん、丸部さんのお声が貴女には聞こえませんか、大変ですからサア早く茲へ来て下さい、エ浦子さん丸部さんが呼んで居ますよ」と云えどお浦は何したか返事をせぬ、少しの物音さえもせぬ、秀子は怪しみ「オヤ、私の傍へ来るのがお厭ですか、其の
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