同時に、余の耳へ「ナニ私の心を疑う事は有りませんよ、安心の者ですよ」との言葉が聞こえ、一方の窓の外から庭へ走り去る人の姿がチラリと見えた、少し怪しんで中へ入ると窓に靠《もた》れてお浦が居る、余「オヤ浦原さん何うして茲に」お浦「貴方に逢い度いと思いまして、ハイ多分貴方が此の室で書見でもして居らっしゃるだろうと考えましたから」余「でも戸の閉めてある室へ何うして這入る事が出来ました」お浦「私は鳥巣庵から庭伝いに茲へ来て、爾して此の窓から入りました」成るほど窓から入られぬ事はない、余「今茲で貴女と話をして居たのは誰ですか」お浦「誰も話などは仕て居ませんよ、ああ分った、私が独言を仕て居たから貴方は其の声をお聞き成さったのでしょう」余「イエ、人の立ち去る姿がチラリと見えた様に思います」お浦は正面からは返事せず、唯「小さい時から私が物を考えるに独言を云う事は貴方が能く御存じでは有りませんか」と胡魔化した、勿論たって問い詰める程の事でないから余も敢えて争わずに止めた。
余「シタが、私に逢いに来たと云う其の御用事は」お浦「折入ってお詫びに来たのです、先ア其の様な恐い顔をせずと、何うか憐れと思ってお聞き下さい」と余ほど打ち萎れた様で余を一方の隅へ連れ行きて腰を卸させ、自分も坐を占めて、直ちに余の両手を握り「済みませんが道さん、何うぞ昔の約束に返って下さい」余「エ、昔の約束とは」お浦「貴方と私は末は夫婦と云う約束で育てられたでは有りませんか」余が驚いて只一言に断ろうとするを推し留め「先ア否だなどと仰有らずに聞いて下さい。少しも貴方を愛せぬなどと言い切って私はアノ約束を取り消し、爾して外国へ立ち去りましたけれど、アレは貴方が素性も知れぬ松谷秀子に心を寄せて居る様に思いましたから嫉妬の余りに云うた事です、外国へ行って居ると益々貴方が恋しくなり、今では後悔に堪えません、夫に此の家の養女で居る時は、何処へ出ても人から大騒ぎをせられましたが、今では誰も構い附けて呉れず、実に残念に堪えません、今までは我儘ばかりでお気に入らぬ事も有りましたろうが、是からは心を入替え、貴方の為ばかりを考えますから、何うぞアノ約束の取り消しを取り消して下さいな、ネエ、道さん」と余の顔を差し窺いたが、余は余りズウズウしいに呆れ、容易には返辞も出ぬ、お浦「道さん、お返事は出来ませんか」余「イエ返事は出来ますけれど貴女の望む
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