たが、衣嚢の中の品物は何であろう、怪しむまいと思っても何うも怪しい。
 郵便に差し出して家に帰ると又も廊下で彼の医者に逢った、余は一礼して「先生、何うも狐猿の毒は恐ろしい者ですネエ」医者は合点の行かぬ顔で「エ、狐猿とは」余「貴方に掛かって居ます虎井夫人の怪我の事です」医者「アア、あれですか、あれは何でも古釘で引っ掻いた者です、錆びた鉄物《かなもの》の傷は何うかすると甚く禍いを遺します」余は唯「爾ですか」と調子を合わせて分れたけれど深く心を動かした、果して錆びた釘か何ぞで引っ掻いたものならば、何故虎井夫人が狐猿に引っ掻れたなどと言って居るのだろう、若しや先きの夜、余の寝床へ血を落したのは此の夫人では有るまいか、画板の間から手を出したとすれば古釘に引っ掻れる事は随分ある、オヤ、オヤ、爾するとアノ衣嚢の中に在った品は、秀子の盗まれたと云う手帳では有るまいか、今更疑っても既に遅い、イヤイヤ必ずしも遅くはない、必要となれば養蟲園穴川と云う家を尋ねて行っても好いのだ。

第二十九回 壁の中から剣

 若し此の翌日、恐ろしい一事件が起らなんだら、余は必ず養蟲園へ行き、穴川甚蔵と云う者が何の様な男かを見届けた上で少しでも怪しむ可き所があれば、第一に秀子に話して虎井夫人が此の甚蔵に送った小包が果して秀子の盗まれた手帳であるや否や究めねばならぬ。
 併し養蟲園へ行く前に、一応調べて見たいのは狐猿の爪に果して毒があるや否やの一条だ、若し毒が有って、之に引っ掻れたなら古釘で傷つけられたと同様の害を為すと云う事でも分れば、虎井夫人に対する余の疑いは大いに弱くなる。
 余の書斎には斯る事を調べる丈の参考書はないけれど当丸部家の書斎には必ずある、尤も引越※[#「※」は「つつみがまえの中に夕」、読みは「そう」、64−上6]々で未だ書斎は整理して居ぬ、けれど其の室だけは定《きま》って居て、既に本箱などをヤタラに投げ込んである、其の室は昔此の家の主人が自分の居室にする為に建てたので、相変らず内部に様々の秘密な構造が有ると言い伝えられて居る、此の言い伝えさえなくば叔父が自分の居室とする所で有ったが叔父は秘密などのある室は否だとて到頭書斎に充《あ》てたのだ、室の内部は三所に仕切って有って書斎には余り都合が好くないけれど仲々立派な普請である。
 余が此の室へ入ろうとする時、室の中に人声が有って、戸を開くと、
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