り、今年夏の初め妾は余り屡々奉公先を空ける故暇を出されて馬道の氷屋へ住込しが七月四日の朝母より「親指は今日午後五時の汽車で横浜へ行き明後日《あさって》まで確かに帰らぬからきッとお出《いで》待《まっ》て居る」との手紙来れり妾は暫く金起に逢ぬ事とて恋しさに堪えざれば早速横浜へ端書を出したるに午後四時頃金起来りければ直に家を出で少し時刻早きゆえ或処にて夕飯を喫《た》べ酒など飲みて時を送り漸《よう》やく築地に着きたるは夜も早や十時頃なり直ちに施寧の家に入り母と少しばかり話しせし末例の如く金起と共に二階に上り一眠りして妾は二時頃一度目を覚《さま》したり、見れば金起も目を覚し居て「お紺、今夜は何と無く気味の悪い事が在る己は最《も》う帰る」と云いながら早や寐衣《ねまき》を脱ぎて衣物《きもの》に更《あらた》め羽織など着て枕頭《まくらもと》に居直るゆえ妾は不審に思い「何が其様に気味が悪いのです帰るとて今時分何処へ帰ります(金)何処でも能《よ》い、此家には寐《ね》て居れぬ(妾)何故ですえ(金)先程から目を醒して居るのに賊でも這入て居るのか押入の中で変な音がする、ドレ其方《そっち》の床の間に在る其煙草入と紙入を取ッて寄越せ(妾)なに貴方賊など這入《はいり》ますものか念の為めに見て上《あげ》ましょう」と云いながら妾は起きて後なる押入の戸を開けしに個《こ》は如何に中には一人《ひと》り眠れる人あり妾驚きて「アレー」と云いながら其戸を閉切れば眠れる人は此音に目を覚せしか戸を跳開《はねひら》きて暴出《あれいで》たり能く見れば是れ金起の兄なる陳施寧なり、今より考え想い見るに施寧は其子寧児より此頃妾が金起と共に其留守を見て泊りに来ることを聞出し半ば疑い半ば信じ今宵は其実否を試さんとて二日泊りにて横浜へ行くと云いなし家を出たる体に見せかけ明るき中より此押入に隠れ居たるも十時頃まで妾と金起が来らざりし故|待草臥《まちくたび》れて眠りたるなり、殊に西洋|戸前《とまえ》ある押入の中に堅く閉籠りし事なれば其戸を開く迄物音充分聞えずして目を覚さずに居たる者なり夫《それ》は扨置《さてお》き妾は施寧が躍出るを見て転《ころが》る如くに二階を降しが、金起は流石に男だけ、徒《いたずら》に逃たりとて後にて証拠と為る可き懐中物などを遺しては何んの甲斐も無しと思いしか床の間の方に飛び行かんとするに其うち早や後より背の辺りを切り附
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