けられたり妾是まではチラと見たれど其後の事は知らず唯斯く露見する上は母は手引せし廉《かど》あれば後にて妾よりも猶お酷《ひど》き目に逢うならんと、驚き騒ぎて止まざるゆえ妾は直に其手を取り裏口より一散に逃出せり、夜更なれども麻布の果には兼て、一緒に奉公せし女安宿の女房と為れるを知るに由り通り合す車に乗りて、其許に便《たよ》り行きつゝ訳は少しも明さずに一泊を乞いたるが夜明けて後《の》ちも此辺りへは人殺しの評《うわさ》も達せず妾は唯金起が殺されたるや如何にと其身の上を気遣うのみ去れども別に詮方あらざれば何とかして此後の身の振方を定めんと思案しつ又も一夜を泊りたるに今日午後一時過ぎに谷間田探偵入来り種々の事を問われたり固《もと》より我身には罪と云う程の罪ありと思わねば在りの儘を打明けしに斯くは母と共に引致《いんち》せられたる次第なり
以上の物語りを聞了《きゝおわ》りて荻沢警部は少し考え夫《それ》では誰が殺されたのか(紺)誰が殺されたか夫《それ》までは認めませんが多分金起かと思います(荻)ハテ金起が―併し金起は何《ど》の様な身姿《みなり》をして居た(紺)金起は長崎に居る時から日本人の通りです一昨夜は紺と茶の大名縞の単物に二タ子唐桟の羽織を着て博多の帯を〆て居ました(荻)ハテ奇妙だナ、頭は(紺)頭は貴方の様な散髪で(荻)顔に何か目印があるか(紺)左の目の下に黒痣《ほくろ》が
アヽ是にて疑団《ぎだん》氷解《ひょうかい》せり殺せしは支那人陳施寧殺されしは其弟の陳金起少も日本警察の関係に非ず唯念の為めに清国領事まで通知し領事庁にて調《しらべ》たるに施寧は俄に店を仕舞い七月六日午後横浜解纜の英国船にて上海に向け出帆したる後の祭にて有たれば大鞆の気遣いし如く一大輿論を引起すにも至らずしてお紺まで放免と為れり去れど大鞆は谷間田を評して「君の探偵は偶《まぐ》れ中《あた》りだ今度の事でも偶々《たま/\》お紺の髪の毛が縮れて居たから旨く行た様な者の若しお紺の毛が真直だッたら無罪の人を幾等《いくら》捕えるかも知れぬ所だ」と云い谷間田は又茶かし顔にて「フ失敬なッ、フ小癪な、フ生意気な」と呟き居る由《よし》独り荻沢警部のみは此少年探偵に後来の望みを属し「貴公は毎《いつ》も云う東洋のレコック[#「レコック」に傍線]になる可しなる可し」と厚く奨励すると云う
[#地付き](明治二十二年九月〈小説叢〉誌発表
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