力を得倉「あゝ思い出しました、爾々《そう/\》全く所天に随て行たのです余「では馬車に乗ても矢張其後に随て行く様に仕込で有ますか、何でも太郎殿はリセリウ街《まち》から馬車に乗たと仰有《おっしゃ》ッた様でしたが」倉子は一言の返事無し、余は益々切込みて充分に問詰んとするに、何故か目科は此時邪魔を入れ「詰らぬ事を問い給うな、内儀も酷《ひど》く心を痛められる際と云い三時からは又裁判所の呼出しにも応ぜねば成らぬ事だから最《も》う少しは休息なさらねば能《よ》く有る舞《ま》い、家捜《やさがし》までして何も見出さぬから最う吾々の役目は済《すん》だじゃ無いか、好い加減にお遑《いとま》に仕様《しよう》、さア君、さア」余は実に合点行かず、折角敵の灸所を見出し今たゞの一言にて底の底まで問詰る所なるに、目科は夫を詰らぬ事と言い無理に余を遮《さえぎ》らんとす、余はむッとばかりに憤《いきどおり》しかども目科は眼にて余を叱り、二言と返させずして匆々《そこ/\》倉子に分れを告げ、余を引摺《ひきず》らぬばかりにして此家を起立《たちいで》たり。
「君は心を失ッたか」とは此家を出て第一に目科が余に向い発したる言葉なりしが、余は彼を佶《きっ》と見詰て「夫は僕の方で云う言《こと》だ、君こそ心を失ッたのだろう、僕が発見した敵の灸所は今まで詮策した中《うち》で第一等の手掛じゃ無いか、返事に窮して倉子のドギマギした様が君の目に見えなんだか、今一思いと云う所で何故無理に僕を制した、君はあの女に加担する気か、え君、夫とも犬が非常の手掛りだと云う事が猶《ま》だ君には分らぬか」鋭き言葉に目科は別に怒りもせず「夫だから前以て誡《いまし》めて置たのだ、成るほど犬に目を附けたは実に感心だ、多年此道で苦労した僕も及ばぬ程の手柄だ、吾々の拠《よ》る所は是から唯《たゞ》あの犬ばかり、夫にしても君の様に短兵急に問詰ては敵が直様《すぐさま》疑うから事が破れる、今夜にも倉子があの犬を殺して仕舞うか夫とも何所かへ隠して仕舞えば何うするか」成る程と感心して余は猶お我腕前の遙《はるか》に目科より下なるを会得したり。
第十回(判然)
兎《と》に角《かく》も犬と云う一個《ひとつ》の捕え所を見出したれば之を本《もと》にして此後の相談を固めんものと余等二人は近辺の料理屋に入たるが二人とも朝からの奔走に随分腹も隙《す》きし事なれば肉刺、小刀《ないふ》を我《われ》劣《おとら》じと働かせながらも様々の意見を持出し彼是《かれこれ》と闘わすに、余も目科も藻西太郎を真実の罪人に非ずと云うだけ初より一致して今も猶お同じ事なり、罪人に非《あらざ》る者が何故に白状したるや是れ二人とも合点の行かぬ所なれど個《こ》は目下の所にて後廻しとする外無ければ先ず倉子の事より考うるに、倉子も彼《あ》の夜両隣の細君と共に我家に留りし事なれば実際此罪に手を下せし者にあらぬは必定《ひつじょう》なり、去ればとて犬の返事に詰りたる所と云い猶お其外の細かき様子など考合《かんがえあわ》せば余も目科も大《おおい》に疑いあり、手は自ら下さぬにせよ、目科の細君が言し如く此犯罪の発起人なるやも知れず、縦《よ》し発起人と迄に至らずとも真《まこと》の罪人を知れるやも知れず、否《いな》多分は知れるならん。
爾《さ》すれば罪人は誰なるや此罪人がプラトを連居《つれい》たる事は店番の証《しょう》茲《こゝ》にて明白なれば何しろプラトが我主人の如く就従《つきしたが》う人なるには相違なしプラトは余等に向《むか》いても幾度か歯を露出《むきいだ》せし程なる故、容易の人には従う可《べ》しとも思われず、然《しか》らば家内同様に此家に入込てプラトを手懐得《てなずけう》る人の中《うち》と認るの外なく、凡そ斯《かゝ》る人なれば益々以て倉子が知れる筈なるに露ほども其様子を見せぬのみかは勉《つとめ》て其の人を押隠さんとする所を見れば倉子のためには我が所天《おっと》より猶お大切の人としか思われず、あゝ我が所天よりも猶お大切のひとあるや、有らば是れ何者なるぞ。
茲まで考え来るときは倉子に密夫《みっぷ》あるぞとは何人《なんびと》にも知《しら》るゝならん、密夫にあらで誰が又倉子が身に我|所天《おっと》よりも大切ならんや、唯《た》だ近辺の噂にては倉子の操《みさお》正しきは何人も疑わぬ如くなれど此辺の人情は上等社会の人情と同じからず上等の社会にては一般に道徳|最《い》と堅固にして少しの廉《かど》あるも直《たゞち》に噂の種と為《な》り厳しく世間より咎めらるれど此辺にては人の妻たる者が若き男に情談口を開く位は当前の事にして見る人も之を怪《あやし》と思わねば操が操に通らぬなり、殊に又美人の操ほど当《あて》に成らぬ者は無く厳重なる貴族社会に於てすらも幾百人の目を偸《ぬす》みて不義の快楽に耽《ふけ》りながら生涯人に知《しら》れずして操堅固と褒《ほめ》らるゝ貴婦人も少なからず、物を隠すには男子も遙に及ばぬほど巧なるが凡て女の常なれば倉子も人知れず如何なる情夫を蓄《たくわ》うるや図られず、若し情夫ありとせば其情夫誰なるや、如何にして見破るべきや。
是れ実に難中の至難なり、余は及ぶだけ工夫せし末「何うだ目科君、倉子へ見え隠れに探偵一人を附けて置ては、え君、必ず此犯罪の前に情夫と打合せて有るのだから当分其情夫が此辺へ尋ねて来る事は有るまいけれど、女と云う者は心も細く所天が牢に入られ、其筋からも時々《しば/\》異様な人が来て尋問するなどの事が有ては独《ひとり》で辛抱が出来なく成り必ず忍で其情夫に逢に行くだろうと思うが」目科は余が言葉に返事もせず只管《ひたすら》に考うるのみなりしが忽然《こつぜん》として顔を上げ「いや了《いけ》ぬ、了ぬ、俚諺《ことわざ》にも鉄の冷《さめ》ぬうちに打てと云う事が有る、余温《ほとぼり》を冷ましては何も彼も後の祭だ余「では余温の冷めぬうちに甘《うま》く見破る工夫が有るのか目「随分険呑な工夫だけれど一か八か当《あたっ》て砕けるのさ余「夫にしても何う云う工夫だ目「工夫は唯だあの犬ばかりだ、犬を利用する外無いから旨《うま》く行けば詰る所君の手際だ、犬に目を附け初めたのは君だから、夫にしても遣《やっ》て見るまで黙《だまっ》て居たまえ、今に直ぐ分る事だ余「今に直なら夫まで無言で問ずにも居ようが真に今直遣るのかえ目「左様《さよう》、裁判所から倉子に出頭を命じたのが午後三時だから倉子は二時半に家を出るだろう、家を出れば其留守はあの下女が一人だから吾々の試験す可きは其間だ余「と云て今既に二時を打たぜ目「爾だ、さア直に行う」と云い早や勘定を済せて立上れり、目科が当ッて砕けろとは如何なる工夫なるや知ざれど、余は又も無言の儘従い行く、行きて藻西の家より遠からざる所に達し、再び但《と》ある露路に潜みて店の様子を伺い居るに、幾分間か経ちし頃、倉子は店口より立出たり、先ほどの黒き衣服に猶お黒き覆面を施せしは死せし所天《おっと》の喪に服せる未亡夫人かと疑わる、目科は口の中にて「仲々食えぬ女だわえ、悲げな風をして判事に憫《あわれ》みを起させようと思ッて居る」と呟きたり、暫くするうち倉子は足早に裁判所の方《かた》へと歩み行き其姿も見えずなりしが是より猶も五分間ほど過せし後、目科は「さア時が来た」と云い余を引きて此隠場を出で一直線に藻西の店先に到るに果せるかな先刻見たる下女唯一人帳場に据《すわ》りて留守番せり、目科の姿を見て立来るを、目科は無雑作なる言葉にて「これ/\、内儀《ないぎ》を一寸《ちょっ》と呼で呉れ下「内儀《おかみ》さんは最《も》う出て仕舞いましたよ」目科は驚きたる風を示し「其様な筈は無いよお前先程来た己の顔を忘れたな下「いえ爾では有ませんが、全く内儀《おかみさん》は出て仕舞たのです、虚《うそ》と思えば奥の間へ行て御覧なさい、最う誰も居ませんから目「やれ/\、あゝ夫は困ッたなア実に困《こまっ》た、己よりも先《ま》ア内儀が嘸《さぞ》かし失望する事だろう、困たなア」と頭を掻く其様如何にも誠《まこと》しやかなり、下女は何事かと怪しむ如く、開きたる眼に目科の顔を打眺む、目科は猶も失望せし体にて「実は己が余り粗匆《そゝっか》しく聞て行たから悪かッたよ、折角内儀の言伝《ことづけ》を受《うけ》て、先の番地を忘れるとは、爾々《そう/\》お前若しあの人の番地を覚えて居やア仕無いか、何でもお前も傍で聞て居たかと思たが女「いえ私しは初めから店へ出て居たから聞《きゝ》ませんでしたが、でも何方《どなた》の番地ですか目「何方ッてそれ彼《あ》の人よ」と言掛て目科は忽《たちま》ち詰り「えゝ己の様な疎匆《そゝっ》かしい男が有うか、肝腎の名前まで忘れて仕舞ッた、えゝ何とかさんと言たッけよあの、それ何とかさんよあの、えゝ自裂《じれっ》たい口の先に転々《ころ/\》して居て出て来ない、えゝ何とかさん、何とかさん、おうそれ/\彼のプラトが大変に能く懐《なじ》んで居る人よプラトが己に噛附《かみつこ》うとした時内儀が爾《そう》云た、他人で此犬の従うのは唯何とかさんばかりですッて」下女は合点の行きし如く「あゝ分りました夫なら生田《いくた》さんでしょう、生田さんなら久しく此家の旦那と共に職人を仕て居ましたからプラトを自由に扱います」目科は真実に喜びの色を浮《うか》め「あゝ生田さん生田さん、其生田さんを忘れてさ、今度は能く覚えて行う、其生田さんの居る所は何所《どこ》とか云《いっ》たッけなア」下女は唯此返事一つが己れの女主人には命より大切なる秘密と知らず易々《やす/\》と口に出《いだ》し「生田さんならロイドレ街二十三番館に居るのです目「爾々、爾云たよロイドレ街二十三番館だと、夫を全《すっ》かり忘れて居た、難有《ありがた》い/\、お前のお影で助かッた内儀が帰ッて来れば必ずお前を褒《ほめ》るだろう」と反対の言葉を残して戸表《おもて》へと走り出たり。
あゝ、ロイドレ街二十三番館に住む生田と云える男こそ吾々の当《とう》の敵《かたき》なり、此上は一刻も早く其館に推行《おしゆき》て生田を捕縛する外なしと余は思えど目科は「是から裁判所へ行て逮捕状を得て来ねば何事もする訳に行かぬ」と云う余「ダッて君、裁判所へ行けば倉子が既に行て居るから吾々が逮捕状を得るのを見て、生田を逃す様な工夫を廻《めぐ》らせるかも知れぬぜ、夫に又ぐず/\する間に倉子が内へ帰り下女の言葉を聞くとしても吾々の目的は破れて仕舞う目「何が何でも逮捕状が無い事には此上一歩も運動が出来ぬから」と云い、早くも通り合す馬車を呼留め、之に乗りて僅か三十分と経ぬうちに裁判所に達すれば先ず其小使を呼びて問うに判事は今正に倉子を尋問しつゝありとの事なり、目科は更に手帳の紙を破り之に数行の文字を認《したゝ》め是非とも別室にて面会したしとの意を云い入るゝに、暫くして判事は別室に入来り目科が撥摘《かいつま》みて云う報告を聞き「成る程夫は面白いが最《も》う藻西太郎が白状して仕舞たよ、全《すっ》かり白状したから外に何の様な疑いが有ても自然に消滅する訳だ」と云い取上る景色も無きを猶も目科が喋々《くしゃ/\》と説立《ときたて》て漸くの事に「然《しか》らば」との変事《へんじ》を得、生田なる者に対する逮捕状を認《したゝ》めて差出すや目科は受取るより早く、余と共に狂気の如く裁判所を走り出、待《また》せある馬車に乗り、ロイドレ街を指して馬の足の続く限り走《はしら》せたり、頓《やが》てロイドレ街に達《たっす》れば町の入口に馬車を待せ、幾度か彼の嚊煙草にて強《しい》て顔色を落着けつゝ、二十三番と記したる館を尋ねて、先ず其店番に向い「生田さんは居るか」と問う店「はいお内《うち》です、四階へ上れば直《すぐ》に分ります」と答う、目科は階段《はしごだん》に片足掛けしが忽《たちま》ち何事をか思い出せし如く又も店番の許《もと》に引返し「今日は生田に一杯振舞う積りで来たが生田は毎《いつ》も何の様な酒を呑む店「何の様な酒ですか、常に此筋向うの酒屋へは能く行きますが目「好し、彼所《あすこ》で問うたら分るだろう」と云い大足に向うの酒店《さかみせ》に馳《
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