は》せて入る、余は薄々と其目的を察したれば同じく酒店に馳て入るに目科は給仕に向い「あの青い口を仕て有る銘酒を持て来い」と云う、給仕が心得て持来るを目科は受取るが否《いな》直《たゞ》ちに其口なるコロップを抜き其封蝋の青き所を余に示してにッこと笑み、瓶は酒の入たる儘にて幾法《いくふらん》の銀貨と共に卓子《ていぶる》の上に残し置き、コロップを衣嚢《かくし》に入れて再び二十三番館に帰り、今度は案内を請わずして四階の上に飛上る、成るほど生田の室は「飾職《かざりしょく》生田」と記《しる》したる表札にて明かなれば、直ちに入口の戸を叩くに内より「さアお這入《はい》り成《な》さい」との声聞ゆ、鍵は錠の穴に差込みしまゝなれば二人は遠慮なく戸を開きて内に入《い》る、内には窓の下なる卓子《ていぶる》に打向い、今現に金の指環に真珠を嵌《は》むる細工に掛れる、年三十二三の優《や》さ男、成るほど女にも好かれ相《そう》なる顔恰好は是れが則ち曲者生田なるべし、生田は二人の入来るを見て別に驚く様子も無く立来りて丁寧に「何の御用でお出に成りました」と問う、目科は斯《かゝ》る事に慣れし丈《だ》け、突然進みて生田の腕を捕え大喝《だいかつ》一声に「法律の名に於て其方《そのほう》を捕縛する」と叱り附る、生田は初て驚きたるも猶お度胸を失わず「御笑談《ごじょうだん》を為《な》さるな私しが何をしました」目科は肩を聳《そびやか》して「これ/\今と成て仮忘《とぼ》けても了《いけ》ないよ、其方が一昨夜梅五郎老人を殺し其家を出て行く所を確かに認めた者も有り、殊に其方が短剣の刃の欠けぬ様、其剣先に差して行て帰る時に忘れて来たコロップも持て居る、其証拠を見せて遣《やろ》うか」鋭き言葉に敵し得ず全く逃るゝ道なきに失望せし如く、蹌踉《よろめ》きて卓子《ていぶる》に仆《たお》れ掛り、唯口の中にて「私しでは有りません、私しでは有りません」と呟くのみ。
目「其様な事は判事の前へ出た上で云うが好い、云た所で迚《とて》も採用はせられ舞《ま》い、既に其方の共謀者藻西倉子が何も彼も白状して仕舞たから」此言葉に生田は電気にでも打れし如く跳《はね》返り「え、え、あの女が、其様な事は有りません、少しもあの女の知ッた事で無いのですから」驚きの余り辷《すべ》らせたる此言葉は充分の白状に同じければ目「して見ると其方が一人で計《たく》んで一人で行ッたと云うのだな、夫だけ聞けば沢山だ」と云い目科は更に余に向いて「君、あの卓子《ていぶる》の中《うち》などを検《あらた》めたまえ必ず藻西倉子の写真や艶書《ふみ》などが入《いっ》て居るから」と云う、余は其《その》命《めい》に従わんとするに生田は痛く憤《いきどお》り拳《こぶし》を握りて目科に打て掛らんとせしかども、二人に一人の到底及ばぬを見て取りし如く唯《た》だ悔しげなる溜息を洩すのみ、果して卓子《ていぶる》其他の抽斗《ひきだし》よりは目科の推量せし通り倉子よりの艶書《ふみ》も出で且《かつ》其写真も出たる上、猶お争われぬ大《だい》の証拠と云う可きは血膏《ちあぶら》の痕を留めし最《いと》鋭き両刃《もろは》の短剣なり、殊に其形はコロップの裏の創にシックリ合えり、生田の罪は最早《もは》や秋毫《しゅうごう》の疑い無し。
是より半時間と経ぬうちに生田は目科と余の間にはさまりて馬車に乗せられ警察本署へと引立られしが余は其道々も余り捕縛の容易なりしに呆《あき》れ「あゝ案じるより産むが易い」と呟けば目科は「先《ま》ア探偵に成て見たまえ斯う易々と捕縛されるのは余り無いから」と答えたり。
斯《かく》て生田は直《たゞ》ちに牢屋へ入られしが、牢の空気は全く彼れの強情を挫《くじ》きし者と見え彼れ何も彼も白状したり其大要を掻摘《かいつま》めば彼れは久しく藻西太郎と共々に飾物の職人を勤めしだけ太郎の伯父なる梅五郎老人とも何時《いつ》頃よりか懇意に成りたり、此度老人を殺したる目的は全く藻西太郎を憎むの念より出しものにて彼れに人殺しの疑いを被《き》せ其筋の手を借りて亡き者とし其後にて倉子と添遂《そいとげ》ると云う黙算なれば、職人の衣類を捨て故々《わざ/\》藻西の如き商人の風に打扮《いでた》ちプラトを連れて老人の許へ問行《といゆ》きしなり、是だけにて充分藻西に疑いの掛るならんと思いたれど猶お念の上にも念を入れ、老人の死骸の手を取り、傷より出る血に染めて、宛《あたか》も老人自らが書きし如く床に血の文字を書附て立去りしとなり、是だけ語りて生田は最《いと》誇顔《ほこりがお》に「仲々|能《うま》く計《たくん》だと思いましたが老人を殺せば倉子の亭主は疑いを受けて亡き者に成り其上老人の財産は倉子に転《ころが》り込《こん》で倉子は私しの妻に成ると云う趣向ですから石|一個《ひとつ》で鳥二羽を殺す様な者でした、夫が全く外れて仕舞い此通り成たとは悪い事は出来ぬ者です」目科は是だけ聞き「成るほど趣向は旨《うま》いけれど仕舞際《しまいぎわ》に成て其方の心が暗み大失策を遣《やらか》したから仕方が無い、其方は自分の右の手で直に老人の手を取たから老人の左の手であの文字を書せた事に成て居る」此評を聞き生田は驚きて飛上り「何と仰有《おっしゃ》る、だッて夫が為に私しへ疑いの掛ッた訳では有ますまい目「夫が為に掛ッたのさ、左の手だから老人が自分で書たので無いのは明白で、既に曲者が書たとすれば藻西太郎が自分で自分の名を書附ける筈は無いから」生田は宛《あたか》も伯楽《はくらく》の見|落《おとさ》れたる千里の馬の如く呆れて其顔を長くしつ「是は驚た、あゝ美術心が有ても駄目だ、余り旨く遣過《やりすぎ》ても無益の事だ、貴方は猶《ま》だあの老人が左得手《ひだりえて》で、筆を持つまで左の手だと云う事を御存じないと見えますな」あゝ/\扨《さて》は彼の老人左きゝにして曲者の落度と見しは却《かえっ》て其手際なりしか、目科の細君が最《いと》賢き説を立てながらも其説の当らざりしは無理に非ず、後に至りて聞糺《きゝたゞ》せしに老人は全く左|利《きゝ》なりしに相違なし、左《さ》すれば余が自ら大発見大手柄と心の中にて誇りたる事柄も実は全くの間違いなり、夫を深くも正さゞりし余と目科の手落も浅しと云う可からず、探偵の事件には往々《おう/\》斯《かく》までに意外なる事多し此一事は此後余が真実探偵社会の一員と為りてよりも大《おおい》に余をして自ら省《かえりみ》る所あらしめたり、既に実《まこと》の罪人の捕まりし事なれば倉子の所天《おっと》藻西太郎は此翌朝放免せられたり、判事は放免言渡しのとき、彼れが我身に覚えも無き事を易々《やす/\》と白状して殆ど裁判を誤らしめんとするに至りし其不心得を痛く叱るに彼れ屡々《しば/\》首《こうべ》を垂れ「私しは自分より女房が可哀相です、自分で一|層《そ》罪を引受け、女房を助ける積でした、はい実は一図に最《も》う女房が殺した事と思い詰めましたので、はい畢竟《ひっきょう》云えば女房が私しに貧しい暮しをさせて置くのが可愛相で夫ゆえ伯父を殺して呉れたと思いまして、はい爾とすれば其志ざしに対しても女房を懲役に遣《やっ》ても済ぬと思いまして、はい夫でも昨夜|探偵吏《たんていり》のお話に曲者が犬を連れて行たと聞き若しや生田では有る舞いかと思い附き忌々《いま/\》しくて成ませんでしたが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後を誡《いまし》めて放免したりとなん。
藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房を斯《かく》も罪人と思い詰めたる所を見れば、何か女房に疑う可き廉《かど》の有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと説勧《ときすゝ》めたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え真逆《まさか》に唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得ざりし故、言葉を托して一月《ひとつき》二月《ふたつき》と延し居るうち女房は我|所天《おっと》の活智《いくじ》なきを見、終《つい》に情夫の生田に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も由因《ゆかり》も無き他人と思えば左《さ》まで躊躇する事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の身代《しんだい》は我愛する美人倉子の持参金と為りて我が掌底《たなそこ》に落《ころ》がり込む訳なれば承知したるも無理ならず。
個は余と目科の考えにして孰《いず》れとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言渡されたり。
藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらるゝや直《たゞ》ちに引取りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローンの近辺へ不評判なる酒店を開業し倉子は日夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其|綺倆《きりょう》も今は頽《くず》れて見る影なし、太郎も倉子が酔たる時は折々機嫌を取損ね打擲《ちょうちゃく》せらるゝ事もありと云えば二人《ににん》はそろ/\零落の谷底に堕落し行く途中なりとぞ。[#地付き](以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシル記《しる》す)
[#地から1字上げ](終)
[#地付き](小説集『綾にしき』明治二十五年八月刊収載)
底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
1984(昭和59)年12月21日初版
1996(平成8)年8月2日8版
初出:「綾にしき」
1892(明治25)年8月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:川山隆
2006年4月30日作成
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